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Annunciation


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 ―――――こうして引退を目前にしてみると、私の人生と言うのはなかなか充実した、安定したものであった。
 もちろん悪魔祓いという職業柄、危険な目に遭ったことは数え切れぬほどある。もはや私の命のもこれまでと覚悟を決めたことも、片手の指では数え切れないほどだ。
 だが振り返ってみれば、結局私はその時その時で何とか危機を乗り越えてきた。まったく幸運としか思えぬ出来事もままあったが、いずれにせよ、私の命が今日この日まで永らえた事実に、私は神への深い感謝を押し隠すことが出来ない。大いなる神に永久の栄光あれ!!
 私としてはこのまま老醜を晒す事無くペンを置き、あとは後続の者達の活躍を願って祈りを捧げたいものであるが、それではそもそも私がペンを取った意味がない。間違いなく私の恥辱として数え上げられるべき出来事ではあったが、同時になんとしても後世に伝えられねばならぬ事柄でもある、と私は強く信じている。
 やがてこの書を目にするであろう誰かが願わくば、私の意思を理解し、私の意志を継いでくれることを心より願うものである。



 思えば、そもそも神父として神の僕の道を歩んでいた私が悪魔払いとして生きるに至ったのは、私の若い頃に体験した、ある不思議な出来事がきっかけであった。
 あれはそう、私がまだ新米の神父としてこの教区に赴任してきたばかりの頃だから、もう数十年は昔の話になるだろうか。
 当時の私は若い使命感に熱く燃え上がり、神の普遍を信じ、新たに与えられた重責に快さを感じる、無鉄砲ともいえる若者であった。私は若さに任せて情熱的に教区を回り、神の教えを説き、毎週末にはミサを開いて神に祈りを捧げていた。
 そんな私を教区の人々はおおむね温かく迎えてくれたが、中には勿論邪険に扱われることもあった。そんな時私は大抵心が通じ合わぬことに強い憤りを感じ、同時に神の僕としての己の力量に疑いを抱いて、何時間も神に祈りを捧げたまま自問自答を繰り返したものだった。
 だが、幸いなるかな―――――それでも私の周りにいた人々は皆暖かく、純朴であった。彼らが私の言葉に感動したと言い、または私が居てくれて助かったと謝意を伝えてくれる度、私の心は明るく軽くなったものだ。あるいはまったく本末転倒なことであるが、人々の純朴な心持に私の心は救われていたのやもしれぬ。
 私はそんな風にして二年の月日を無我夢中に過ごし、三年目の秋、ようやく自らを磨き高める余裕を持つことが出来たのだった。
 話は変わるが、その夏は酷く暑かったと記憶している。日陰に居ても茹で上がるような暑さがこの地方一体を襲い、私の教区でも幾人もの人間が熱射病と日射病で倒れ腑し、私は殆ど休む間もなく駆けずり回っていた。当時の神父は医者の真似事を行うのも仕事の一つだったとは言え、今から思い返せば背筋が寒くなる心地がする。私は習い覚えた知識と乏しい実体験を元に、文字通り身を粉にして働いた。
 そんな夏であったから、このまま作物が枯れてしまうのではないか、今年は大飢饉になるのではないかと、人々の不安は実際に秋の実りを目にするまで絶えることがなかった。そこで私はまた人々の不安を聞いて祈りを捧げ、同時に遠くの泉まで人々に混じって水を汲みに行くことも惜しまなかった。
 今でも忘れられない―――――今日も変わらぬ青天で一日が終わるかと思っていた夕方、卒然に曇りだした空が叩きつけんばかりの雨を降らせ始めた瞬間!!私達は共に手を取り合って気が狂ったかのように歓声を上げ、子供のようにいつまでも泥を跳ね散らかしたものだ。大いなる神に永久の栄光あれ!!
 そのような苦難を乗り越えた末で得た秋の実りに、人々はしばらく揉め事も悩み事も忘れたように心穏やかに過ごしていたようであった。私はそれを幸いに研鑽を深めんと、神学校時代の書物を引っ張り出してきて一から紐解き、深い神の英知に触れる日々を送っていた。
 ところがある日、私は午後の祈りの最中に、このような光景を見た。
 黒衣を身につけ、同じく黒いレースのヴェールを被った女が、私の前に膝まづいていた。ヴェールの陰に隠れて女の顔の仔細は見て取れなかったが、その視線は真っ直ぐ私の顔に向けられ、まるで私が神そのものであるかのように真摯に訴えかけるのを感じた。
 女は両手を祈りの形に組みあわせ、震えるようにか細い声でこのように訴えた。

『神父様、どうぞお助け下さい』

 声を聞く限り、それは若い女のようであった。その追い詰められたような声色に偽りの響きはなく、信じても良いように思われた。
 私がこのように咄嗟に考えたのは、神学校で、悪魔が人を騙すときは女の姿になって現れる、と教えられたからだ。まして私の知る限り、私の教区にこのような家柄の良さを感じさせる、物腰の柔らかな女は居なかった。
 神の僕として、救いを求める者を拒むことなど思いもよらぬことではあったが、同時に悪魔を退けることも大切な使命であった。しばし迷った後、私は一つ大きく十字を切って、神の御名を唱えた。

『助けるとはどういう事ですか?あなたのような若い方が何をその様に迷っておられるのでしょうか』
『ああ、神父様、私は【悪魔の森】の中に秘められた受胎告知の絵の中に封じられています。神父様のお祈りの声が私の耳にも聞こえてまいりました。私を見つけて下さい。どうぞ私をお助け下さい』

 女が懇願すると同時に、その姿はあたかも白昼夢であったかのようにたちまち掻き消え、気づけばそこにはただ神の前に膝を折り、祈りを捧げる私自身しか居なかった。けれども、慌てて女の姿を求めて振り返った私の足元には、あの女が被っていたヴェールが忽然と残されており、今の出来事が夢幻ではなかったことを示していた。
 私は迷った。
 たとえこれがただの夢でなかったにせよ、悪しき者が私を迷わせんと現われ見せた幻でないという証拠にはならない。悪魔は108の姿を用いて人を惑わすという。あの女の姿が果たして、そのうちの一つでないと言い切ることが誰に出来ようか?
 正直に言おう。私は神の僕であると同時に若く健康な青年であった。神の僕として人々の為に働くことに深い喜びを覚えていたが、同時に私の青年の部分は邪まな行為を求めて疼いていた事もまた事実であった。
 ああ、大いなる神に永久の栄光あれ!!
 誓って言うが、私は私の教区の中のどんなに美しく肉感的な女性にも、そのような邪まな思いをもって接したことはただの一度もない。私は注意深くその感情を分別し、心の奥深くに埋めて、決してそれを表に出そうとはしなかった。私は常に忠実な神の僕で在り続け、人々の良き相談者、理解者で在り続けようとしていた。
 けれども私が努めて無視し続けていた感情もまた確かな存在感で身の内に秘められ、私に完全なる忘却を許そうとしなかった。私はそんな自分の感情に苦しみ、一心不乱に神への祈りを捧げていた。
 そんな折のあの幻のような女の出現である。私が『さては悪魔か』と疑ったのもやむを得ないことであっただろう。
 私は数日間、その女のことをまったく忘れたかのように振舞った。だが日を追う毎に女の姿はより真摯な誠意を持って私に迫り、私の心を強く揺さぶった。
 私は迷った末に同輩の、今は別の教区で神父をしている友人に相談の手紙をしたためた。彼、レオンとは神学校時代に学業を競い合い、互いを高めあった仲であり、私の親友でもあった。
 果たしてレオンから返って来た手紙は簡潔だった。すなわち『神の御名を聞ける悪魔は居ない』―――――思えば一体なぜその事実に気付かなかったものか、それは恐らくは普通ではない体験のせいなのだろうが、彼の返信はまったくの真理であった。
 私はすぐさま深い感謝の手紙をしたためてレオンに送り、乾パンと炒り大豆、皮袋一杯のぶどう酒を用意して頭陀袋に詰めると、教区の人々に所用のため数日間教会を空けることを伝えた。女の口にした【悪魔の森】はここから少なく見積もっても一日半の距離に在り、到底今日行って帰ってくる、という事は不可能だった。
 私は人々の心配そうな顔に見送られて、かの有名な【悪魔の森】へと出立したのだった。


to be continued.....


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