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Annunciation


12


『は………ッ!?』

 目覚めた時、私は、寝台の上で天井に向って右手を必死に伸ばしている自分に気付いた。察するに寝台に倒れ込んで考え事をしているうちに眠ってしまったのだろう、すでに窓から差し込む日差しは紅に染まっており、悪魔使いの屋敷にあって尚恵み深き神の慈愛を感じさせる。
 気付いた瞬間、私はぴんと伸ばされた自身の腕を恐る恐る降ろし、視線だけであたりの様子を探った。もしやどこかにたった今あの、黒衣の脅える女がまだ体を震わせ立ち尽くしているのではないか、と思った。

『はぁっ、はぁっ…………』

 そうしてあたりを探りながら、私はしばらく全力疾走の後のように激しい息を繰り返した。いまし方私が見た夢は、それほど激しく、根こそぎ私の体力を奪っていったのだ。
 ああ、大いなる神に永久の栄光あれ!
 悪魔祓いとして数多の経験を重ね、その最中に幾つもの不思議な体験をした今となっては、普段とはかけ離れた体験が常人の体力を尋常ではなく奪うものだ、と言う事を理解しており、それを防ぐための幾つかの方策も身に付けている。たとえばあの時のように夢告による体験をしたのであれば、夢告だと判った時点で自身の意識の一部を切り離す事である程度の体力の消耗を防げる。
 しかしながら当時の私にそのような知識があったはずもなく、そしてさらには私にはまだ夢告とそうでない夢との区別が感覚としてつける事が出来なかった。今ならば肌に感じる空気でその違いが分かるものが、当時の私には夢の内容と体験を思い起こしてようやくそれと判るくらいであった。
 私は努めて呼吸を整えようとした―――――大きく深呼吸をして肺にたっぷり吐息を取り込み、またそれを吐き出すと言う事を幾度も繰り返して、私は何とか平静の自分を取り戻そうとした。
 そうしながら私はいまし方見た、黒衣の女の脅える夢を思い起こそうとした。あの日と同じく『受胎告知絵から助けて欲しい』とだけ訴え続けた、死を身に纏う不思議な女―――――
 やがてその意識が私自身に及んだ時、私は不意に、何か固いものをしっかりと左手に握りしめていることに気がついた。シーツの中に隠れたままの左手をそっと引き出し、目の前に掲げてみるとそこにあったのは、あの夢の中で女が携えていた扇であった。
 誓って私は眠る前、このような扇を持っていなかった。ましてや現実に見るのは始めてである事は天地神明に誓っても良かった。
 ならば―――――

『夢、告………?』
『そのようだな』

 首をかしげながら自分自身に問い掛けた言葉に、思わぬ場所から答えが与えられた事に私は驚き、瞬間的に寝台の上に跳ね起きた。ばっと声のした方を見れば、つい先刻はそこに存在しなかったはずの少年が一人、夕日の赤に全身を染め、傲慢な誇り高さを従えて立っていた。
 否、その時にはそう思ったのだが、今思い返してみれば恐らく私は少年の存在を見落としていたのだろう。夢から目覚めたばかりの私はそれほど混乱しており、客観的に見て正常な状態であるとは言い難かった。私は、私自身を振り返ってみるにおそらく、少年の姿を全く見落としていたかあるいは、少年の姿に気付きながらその存在を認識していなかったのに相違ない。
 いずれにせよかの少年、ツェーレンドルフ家の若当主たる悪魔使いの少年は全身を紅に染め、それでありながら完全な闇に沈んでいるかのごとき静謐さで、当然のようにそこに立っていた。そうして透明な黒と蒼のイーヴル・アイをかすかにすがめ、私を見下すように見つめていた。
 思えばツェーレンドルフ家の屋敷に滞在を許されて以来、食事の時以外でこのように若当主と見えたのは、初めての事かもしれなかった。食事の際にはかの少年は最奥のテーブルの隅に座っており、逆の端を与えられた私とは正面に顔を合わせる形であったとは言え、その距離はあまりに遠かった。ましてかの少年が声を発するのは常に給仕をしているカヤに命じる時のみであり、私と言葉を交わす事はなかったのだ。
 少年はやはり傲慢寸前の優雅な誇り高さを感じさせる仕草で両腕を組み、私の手にする扇に視線を注ぎながら、ふん、と面白くなさそうに鼻を鳴らした。

『またあの【女】が現れたか』
『………?若当主、あなたはあの女性をご存知なのですか?』

 少年の呟きに私は驚き、気付けばそんな問いを発していた。そう、まるで少年の言い草をそのまま取れば、彼はかの黒衣の女性と既知―――――それもかなり良く知った親しい間柄のように聞こえた。
 思い返せば、一体なぜこの時まで気付かなかったのか、最初に私が夢告の証として黒いヴェールを渡した時もそうだった。あの時かの少年は確かに『あの【女】も小賢しい真似をしてくれる』と、私が捜し求める黒衣の女を既に知っているかのような発言をしたではないか!あのような発言は、ただ私の夢告の話を聞いただけで出てくるものではない。
 私はその事実に愕然とし、真実を問い正さんとした。もしかの少年が黒衣の女の事を何か知っているのであれば、私は何としても彼からその在処を聞き出そう、と固く決意をしていた。
 しかしながら少年は私の言葉には応えず、不意に何気ない様子で自身の足元に視線を落とした。つられて私は視線を落とし―――――再び驚愕の声を上げた。

『トゥフェル!?』

 そこに居たのは、あの子供の姿を持つ悪魔トゥフェルだった。目に見えぬ何かの力に戒められたように哀れな姿で転がるトゥフェルは、ギイギイと耳障りな音を立てて必死に何かを少年に訴えているようであった。
 普段のあの飢えた子供の姿ではなく、本来の2メートル以上ある巨体をさらし、額にねじくれた角を生やして、耳まで裂けた口を哀れに歪め、金の瞳が懇願するように必死に少年の姿を映していた。それを腕を組んだまま冷ややかに、嘲るような笑みすら貼り付けて見下ろす少年の姿は、どこか滑稽な芝居を演じているようでもあり、あるいは在任を裁く御使いの宗教画のようでもあった。
 思わず悪魔の名を呼んで絶句し、一体何が起こっているのか判らず愕然とした私をちら、と見て、かの少年は明確に嘲りの笑みを浮かべた。

『………命拾いしたな、神父。カヤが炒り大豆を渡さなければお前は今ごろトゥフェルの腹の中だ』
『な……ッ!?』
『なぁ、トゥフェル?己の恨みに囚われて主人の命令も聞かぬ愚者が』

 クッ、と喉の奥で笑って少年はトゥフェルの鋼色の巨体を蹴り飛ばした。そんな仕草すらかの少年が行えば、貴族ゆえの傲慢さではなくあるべき正しい姿のように思われた。
 少年は腕を組んだまま、ゴリ、とトゥフェルの腕を踏みにじる。

『神父は襲うな、と命じたにも関わらずお前は何をしていた?神父に爪を向けて何をしようとしていた?トゥフェル、お前の真の名はツェーレンドルフ家のものだと言う事を忘れたか?』

 口調だけ聞けばむしろ淡々と少年は言葉を紡いでいた。ただ事実だけを羅列し、それを問い質すだけのような声色で言葉を紡ぎながら、少年の顔は嘲りの笑みの色濃く、革靴の踵が内出血を起こしてなお容赦なくトゥフェルの巨体を責めなぶる。
 私はゾクリと背筋を震わせた―――――トゥフェルが私の命をおびやかさんと部屋にまで忍んできていたと言う事実と、それを容赦なく踏みにじるかの少年の残酷な姿に―――――そしてそんな少年の姿にすら嫌悪ではなく抗い難い憧憬にも似た何かを感じた私自身に。
 私は不意に理解した。かの少年のそのように残酷な姿すらも人を引き付ける、その事実こそが彼が【悪魔使い】たらしめているのだ。現に少年に踏みにじられている悪魔トゥフェルは、そのような仕打ちを受けてなお縋るように少年に視線を注ぎ、甘んじてその行為を受け続けていた。人をも魔をも超越して引き付けずにおかない【何か】によって少年は悪魔を従え、【悪魔使い】として君臨しているのではないか―――――私はそう考え、確信した。
 そう、かの少年は【悪魔使い】なのだ。悪魔トゥフェルを従える存在なのだ。
 ギイ、ともはや人の言葉も忘れたかのように哀れに鳴くかの悪魔に、私は愚かな事に、同情すら禁じ得なかった。少年の不可視の力で縛られ―――――確認した訳ではないが、私はそうであったと今に至っても確信している―――――惨めに床に転がされ、なぶられて、なおも主人の許しを請おうとするかの悪魔の姿は、哀れとしか言いようがなかった。
 だが、そう、私はあまりにも愚かだった。かの悪魔どもの性質を、己の欲望のためにはもっとも近しい存在ですら騙し欺こうとする奴等の性質を、当時の私は全く理解していなかったのだ。


to be continued.....


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