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030.カウントダウン



 瞳を閉じれば蘇るのはいつも、故郷の芳しい風の匂い。
 彼の生まれ故郷の高ノ宮市はどちらかと言えば都会に類される街だったが、大気に満ちていたのはいつも雨の降り出す一瞬前の濃密な、土の匂いにも似た優しい匂いだった。それは太古から連綿と続く想いの匂いだった。空気自体が力を持つような、不思議な匂いだった。
 彼、剣持樹氷(けんもち・じゅひょう)の人生の大半は旅に費やされた。彼の実家は幸いにして溜め込んだ財産に事欠かず、樹氷はそんな家の一人息子として育った気安さから大学を出てもろくに仕事にも就かず、カバン一つを背負って世界中のあちこちをふらふらとしていた。
 一つには父への反発が在っただろう。父は幼い頃から苦労したとかで、事の他金に執着するヒトだった。金儲けの為ならどんな手段をとっても、どんな危険な目に在っても良いと言う一種妄信的な態度が一代で財を築かせ、その突き抜けた潔さに引かれた変わり者がいつも父の周りを取り巻いていた。
 樹氷はそんな父が嫌いだった。反吐が出るほど憎んでいた。財産目当てを承知で結婚したはずの樹氷の実母は愛想を尽かして出ていったし、その後父が連れ込んだ愛人は病弱な性質だったのか腹違いの妹を産んで急死した。
 樹氷は父も、樹氷を置いて出ていった母も憎んでいた。彼らが死んだと聞いた時も、浮かんだのは悲しみよりも清々とした気持ちだった。ただ異母妹だけが哀れだった。こんな家に生まれなければ普通の娘として育った筈なのに、剣持桔梗(けんもち・ききょう)と呼ばれるがばかりに当人には何の責務も無い憎しみを向けられ、心労の余り23歳でこの世を去った。
 彼がその半生を旅に身を置いたのは、或いは桔梗の死が一番の原因だったかもしれない。同志のように、守るべき存在として、樹氷は桔梗を愛していた。あるいは一つの初恋だったのかも知れぬ、と思えるほど彼女への愛は純粋で激しかった。それが失われた時、樹氷もまた死んだのだ。
 やがて旅の中で父の死を聞き、形ばかりに父の残した事業を引き継いで、結婚して子供が出来た。妻は彼を良く理解し、以前ほどではないものの旅から離れられない樹氷を支え、3人の子供を立派に育て上げた。子供はそれぞれ独立して家庭を持ち、今度は樹氷から事業を引き継いで一層発展させた。
 そうして、今。

「おじーちゃん?」

 首を傾げて覗き込んでくる孫娘に、樹氷は物思いをとぎらせて視線を落とした。今年7歳になる椙山春花(すぎやま・しゅんか)は彼の孫の中で一番彼に懐いている。それは春花が唯一の女孫であり、樹氷が名付け親であるために他の孫よりつい可愛がってしまったのも、一つの要因だろう。
 春花が首を傾げて振り返ったのに、樹氷は柔らかく微笑みかけた。

「何でもないよ・・・・・・今日は随分と風の香りが濃いと思ってね」
「ふぅん・・・・・?わかんないや」
「そうかい」

 肯くと春花はたちまち興味を失ったように、またとてとてと危なっかしい足取りで街を歩き出す。夕下がり、樹氷と手を繋いでこうして散歩するのが日課の彼女は、まだあちこちに興味を引かれる物が多すぎて殆ど立ち止まってばかりだったが、そんな時間が樹氷にはいとおしかった。
 今も道端に咲いた朝顔に目を奪われてしゃがみこんだ春花の小さな背を見つめる。
 春花は、本当は【蕣花】と書く。彼女が今目を奪われている朝顔の別名だ。本来の字では【瞬く間に終わる花】と言う意味があり、余りにも縁起が悪かったので春の字をあてた。
 けれども樹氷にとって、春花は蕣花だ。朝顔だ。そして朝顔とは古代、桔梗を指した。
 若くして失われてしまった哀れな異母妹に瓜二つの春花に、彼女を重ねているつもりはない。けれども彼女のように哀れな人生を歩まぬ様、なのに確かに彼女を思わせる名前を付けたのは、じゃあどうしてだったのだろう。

「おじーちゃーん!!あさがお咲いてるよー!!」

 振り返った春花が嬉しそうに手を振る。微笑んで樹氷は手を振り返す。
 春花もやがては成長する。そうなれば今のように無邪気に祖父を慕い、花に心を奪われて立ち止まる事もなくなるだろう。それはずっと遠い未来で、すぐにやってくる明日だ。
 樹氷は老いた。もう旅をして回る事もままならない。春花とゆっくり散歩をするのが精々だ。
 空を見上げる。今日も風の匂いは濃く、大気に力が満ちているのを感じる。この歳になってより一層鮮明に感じられるのは、この街が不思議の力に満ちているからだ。大陸で出会った友人はそれを龍の気と呼んだか。
 やがて樹氷はこの大気に孵るのだ。今なら判る。やがてこの肉体を脱ぎ捨てて、この街を満たす大気に融けて愛しいものたちを見守るのだろう。その時は遠からずやってくるのだろう。

「春花。そろそろ帰らないとお母さんに怒られるよ」

 樹氷の言葉に春花は弾かれるように顔を上げ、とててっ、と軽い足取りで駆け寄ってくると勢いのまま祖父の手にぶら下がる。まだ幼い春花の重みは、樹氷にとって心地良い。確かに生きているものの感触だ。
 あとどのくらい、この時が続くのか。
 ふと胸に去来する想いに気付かないフリをして、樹氷は孫娘の重さを感じたままゆっくりと帰路につく。それは考えても仕方の無い事で、考えた所で抗う術の無い事だった。
 ひときわ濃い風の匂いが、包むように二人をくすぐった。



 最後に見る夢が愛しい妹のものであれば良いと、そっと祈った夏の夜の事。


.....fin.






文字通りの『カウントダウン』をやってくれた話でした。

びっくりです。

しかし樹氷というキャラクターは命がけにクールで内心を見せずに抱え込んでしまう人なので、

もはやこういうカタチでしか彼の内面を出すことは出来ませんでした。

春花ちゃんは書いてて和みましたが。

あ、ちなみに 舜花=朝顔=桔梗 という構図は本当です!!

昔の人は何を思って名前をつけたかよく判りません……………



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