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055.スケッチブック



「ケイトが死んだ」

 突然の電話は、にわかに降り出した雨のように不吉な響きを持っていて、それが逆に頭の神経を麻痺させたようだった。一体何を言われているのか判らない。判らないまま、握りつぶさんばかりに携帯を握り締めた。

「事故、だったんだ。お前もニュースを見ただろう?観光バスの………」

 観光バス、という言葉だけが頭の隅に引っかかり、セルディ・アングレラはようやくゆっくりと頭を動かし始めた。観光バス。それは今まさに、セルディが見ていた街頭ニュースで騒いでいる、あの観光バスの事故の事を連想させる。
 無茶な運転をしてきた対向車を避けようとして、観光バスが頭から海に突っ込んだという。生存者は運転手を含め、誰一人として、居ない。このゴールデンウィークを利用して県内グルメ日帰り旅行を企画した、なんだか言う旅行会社の責任者が先刻から何度もニュースに登場しては、自社は安全に細心の注意を払っていた事を繰り返し強調してばかりだった。
 チラリ、と街頭テレビの画面を見上げる。耳元で相手が何か言っていたが、それらはすべてセルディの頭の中には残らなかった。右から左へ、どんどんと流れていく言葉の川を意識しないまま、セルディはただ街頭テレビを見上げる。そこに表示され始めた名前は、どうやらその観光バスの事故の犠牲者のようだった。
 アサカシュンスケ。アサカレイコ。クガシマユウコ。………。…………。……………ケイト・ノムラ。……………。
 ケイト・ノムラ。
 その文字が最愛の姉の名前だと言うことを理解するまで、たっぷり十数秒セルディは大きな街頭画面を見つめた。やがて画面は切り替わって次の犠牲者の名前をずらずらと映し出したが、それでもなおセルディはそのニュースを呆然と見つめていた。
 ケイト・ノムラ。セルディの6歳年上の優しく美しい、自慢の姉。2年前に仕事先で知り合った野村俊介(のむら・しゅんすけ)と結婚した後も、たった一人の弟の事を何かと気に掛けてくれた、愛する姉。
 なぜ、その姉の名前が、そこに並んでいる?

「……い!おい、セルディ!聞いてるのか!?」

 耳もとでがなり立てる男の声は、一体誰のものだっただろう………?
 セルディは半ば意識をなくしたまま、ぼんやりと街頭ディスプレイを見上げていた。こんな時、雨でも降っていればまだすくわれる様な気がするのに、あいにくビルの合間から見える空はひどく晴れ、澄み渡っている。その美しすぎる青がなおいっそうセルディの頭を空虚にさせるのだ―――――まるで今起こっていることが、現実のものと思われない。
 導き出される答えはたった一つしか存在しない。にも拘らずセルディは、その答えを導き出すことを恐れた。その答えを思い浮かべてしまえば間違いなく、セルディはもう元に戻れなくなる。

「あ、あああ……ッ」

 それを理解していたからこそ、セルディはその答えから逃げ出そうとした。考えたくなくて悲鳴を上げた。握り潰さんばかりに力を込めていた携帯を発作的にアスファルトに叩きつけ、周りが奇異な目でぎょっとこちらを見るのにも気付かず、がむしゃらに走り出した。
 何も、考えたくなかった。
 何も、思い出したくなかった。
 例えば姉が先日の電話で日帰りバス旅行に行くと言っていた事とか(考えるな)その予定がいつだったのかとか(思い出すな)俊介がセルディの携帯にかけてきたのは初めてだとか(考えるな)観光バスの事故のニュースで流れた姉の名前とか(思い出すな)―――――俊介が開口一番、セルディになんと言ったのか。

(思い出したく、ない!!)

 それを思い出せば、セルディはたった一つの答えしか導き出せなくなる。その答えから逃げ出せなくなる。その答えを、思い知らなければならなくなる。
 何があっても、そんなことは嫌だった。考えたくなかった。理解したくなかった。だからセルディはがむしゃらに、ただひたすらに走る―――――姉が住んでいる、近所の小さなアパートへ。せっかく結婚したんだからもっと環境のいい場所に住めばいいのに、残されたセルディが心配だから、と市街地から遠い実家の近所のアパートを新居に決めた。もう子供じゃないのに、と言っても聞かなかった。
 そう、あの姉はいつだって優しかった。半ば放任主義を決め込んで本国と日本を行ったり来たりの両親の代わりに、セルディを育ててくれたのはケイトだった。ベビーシッターだって居たのに、学校だってあったのに、セルディの面倒を見るのだと言って聞かなかったのは、姉がたった一つ貫き通したわがままだった。
 ケイトは優しかった。美しく、賢く、セルディの自慢の姉だった。陽光の中に立っていると飴色の髪が光に透け、ブラウンの瞳が金色に輝いて見える姉の姿を、セルディは一番愛していた。姉を困らせることなど考えられなくて、姉に「良い子ね」と褒められたくて、セルディはいつも礼儀正しい優等生であろうと務めていた。
 そんなケイトが、ある日野村俊介と結婚すると言い出したとき、何も思わなかったわけじゃない。けれども幸せそうな姉の顔を見れば、それに反対することなど思いつきもしなかった。いつか絵描きになりたい、なんて訳のわからない夢を抱いているような男でも、姉が幸せになれるのならば、セルディが反対する理由はなかった。
 俊介は理想の男とは言いがたかった。それほど見てくれが良かったわけでもないし、知性を感じさせるわけでもなかったし、特徴と言えば休みの日になるといつも画材一式を肩にかけて近所の公園に出かけて、日がな一日絵を描いているような、俊介はそんな男だった。それなのにケイトと二人寄り添っている姿を見れば、なぜだかとても調和した一枚の絵のように見えた。
 そう、だから許せると思ったのだ。姉が幸せそうだったから。セルディ自身よりケイトの傍に居るのが似合う男だったから。そうして俊介の傍に居るケイトが、セルディの知るどんなケイトよりも一番輝いていたから。
 だから、許せると思ったのに。

「どうして………ッ」

 20世紀の終わりに建てられたアパートは、すでに耐久年数が過ぎ去って久しいせいか、ひどく薄汚れた感じがした。こんな場所は姉には似合わないと、セルディはいつも来るたびに思っていた。姉はもっと、陽光のまぶしい場所で笑っているべきだった。その姉にこんな場所を選ばせたのが自分の存在だと思うと、いつもセルディは「早く大人になりたい」と願わずにはいられなかった。
 そのアパートの2階の一室に駆け込んで、セルディは大きく肩で息をしながら、それでも「どうして」と悲痛な叫び声をあげた。

「どうしてあんたがここに居るんだ……ッ」
「………セルディ」
「どうしてケイトを一人で行かせたんだっ、どうしてケイトを止めなかったんだッ!どうしてッ!!」

 それは無茶苦茶な言い分だった。頭の隅でそう判っていたのに、セルディは痛ましげに自分を見て微笑う俊介に、そう訴えずにはいられなかった。どうしてなんだ、と。どうしてケイトが―――――あの美しい姉が、こんな形で失われなければならない?
 理解を、したくないのに事態はゆっくりとセルディの中に染み込み、否応のない強制力でその事実を突きつける。ケイトが死んだ、と俊介は言った。ニュースで流れた観光バスの犠牲者の中にケイトの名前があったのは、姉がその事故によって命を奪われたからだった。
 理解、したくないのに。そんな事態を考えたくないのに、現実にこの部屋に、姉は居ない。
 突然飛び込んできて叫ぶセルディに驚いた様子もなく、俊介はそっとセルディの傍により、走り続けて大きくあえぐ肩を抱いた。その温もりがなおさら、姉が失われた事をセルディに突きつけるようだった。どうして、とまた喘いだ。

「あんたなら……あんたならケイトを守れると思ったのに………」
「セルディ………すまなかった」
「ケイトがあんたを選んだから………あんたがケイトを守るって言ったから………だから俺は………」
「すまなかった、セルディ。すまなかった」

 本当はセルディにもわかっている。俊介が謝る理由なんて、きっとどこにもないのだ。ケイトは事故で死んだ。その事故を予想できなかったのはセルディも同じだ。ケイトを守れなかったのは、セルディも変わらない。同じなのだ。
 だがセルディには、それを口にするだけの余裕もなかった。考えたくなかった。姉が死んだすべての理由を、俊介の責任にしてしまえたならどんなに楽だろう。俊介に責任がないなんて、そんな事を考えた瞬間セルディは、ケイトを失った悲しみをどこにぶつければ良いのか判らなくなりそうだった。
 部屋の隅にばら撒かれた、白い紙が目に入る。その紙切れにいくつも描かれた、柔らかく微笑む姉のスケッチ。引き千切られたようにばら撒かれた紙の真ん中に、今は見る影もない油絵が滅茶苦茶に切り裂かれて転がっていた。そこに描かれていたのもまたケイトの肖像だと、以前にその絵を見たことのあるセルディは、知っていた―――――
 ああ、とセルディは瞳を閉じる。瞳を閉じて、視界を閉ざして、永遠に失われてしまった姉を想う。そうしてセルディの肩に手を回し、自身も小刻みに震えているのを気付いているのか、ぎゅっと力を込めてセルディを抱きしめながら謝り続ける、俊介の事を想う。
 グッ、と溢れ出そうとする涙を堪えた、理由は判らなかった。



 やがて大人になった少年は、姉の死んだ事故を引き起こした対向車の運転手を知り、激しい憎しみを滾らせる。


.....fin.






セルディがなんだか普通のシスコンっぽくて驚きました(待て)

この姉への愛情が向上しすぎて将来ホモになるわけですね。

判りやすい青少年です。

個人的にはお姉さんのだんなさんがもっと書いてみたかったです。

きっと一筋縄じゃいかない素敵な性格の人だろうなぁ。



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