グゥッ、と世界が歪んだような気がして、不愉快な吐き気に囚われながらそっと瞳を開けた。
窓の外から差し込んでくる明かりはほのかに赤く色づいているが、それが夕焼けのそれなのか、あるいはただ単にカーテンの色を透かし取っているだけなのか、とっさのことに判断できない。そもそも、最後にあのカーテンを開けたのはいつのことだっただろう?
グラリ、とわずかに視界に飛び込んできた世界が揺らぐ。その理由を考えることすら、とても面倒だった。
目黒亜澄(めぐろ・あずみ)はそのまましばらくどことも知れない中空に舞う光を見つめながら、傍目にはぐったりと畳の上に横たわっていた。実際にはそれほどの苦痛があるわけでもなく、起き上がろうと思えば起き上がれる。ただ、そうするのが面倒で、そうして何よりとても意味のないことだと、彼自身が知りすぎていた。
日がな一日。朝から晩まで。
何をする気も起きずにこうして過ごしている亜澄が、唯一動くのはこの家の主が帰ってきたときだけだ。否、この家の主がそれを望まなければ、亜澄はきっとずっとこうしたまま息をすることすら止めてしまいたい、と願うだろう。
この、家の主である女性。亜澄よりずっと年上の理知的なヒト。そうして、亜澄をずっとこの家に捕らえたまま、放さないヒト。
カタン、という階下からの物音に、亜澄は彼女が帰ってきたことを知る。先刻の世界の歪みは、彼女が外界からこの家に戻ってきたからだったのだろう。それを知ってもなお何をする気力もなく畳に倒れ付したまま、亜澄は部屋のふすまが彼女によって開かれるのを待った。彼女はいつも必ず、仕事から帰ってくると亜澄の元にやってくる。
「………亜澄、イイコにしてた?」
「…………」
案の定、今日もまっすぐ亜澄の元にやってきた彼女に、沈黙の視線だけをそっと持ち上げた。亜澄がここから出て行けないことを、彼女は亜澄よりもよく知っているはずだ。それでも毎日、同じように彼女は聞く。イイコにしてた?と確認する。
無言の亜澄にも慣れてしまったのだろう、彼女は疲れたようなソバージュの髪をかき上げ、そう、と小さく言葉をもらした。彼女にとってもこれは一種の儀式だ。いつも、繰り返さずには居られない類の。
上着のポケットから押しつぶされた煙草とライターを出し、器用に片手で一本取り出してライターで火をつけながら、彼女は妙に赤いマニキュアの爪をぼんやりと見つめた。その先に静かな亜澄の視線を見て、そう、ともう一度呟き、紫煙を吐き出す。
「『あの女』にも会わなかったの?」
「………京香(きょうか)、サン」
「…ッ!その名前を口にしないでッ!!」
亜澄の唇が彼女が『あの女』と呼ぶ女性の名を紡いだ途端、彼女は激昂し、血走った目で亜澄を睨みつけた。火をつけたばかりの煙草を素手で握りつぶし、女性の細腕とも思えない力でぐいと畳の上に伸びた亜澄の体を持ち上げる。
ポト、と彼女の手からライターが落ちた。
「和田島京香(わだじま・きょうか)のどこが良いの!?あんな女よりあたしのほうがずっと亜澄を愛してるわ!!ずっと亜澄を必要としてるわ!!ずっと亜澄を幸せにできるわ!!だから亜澄はあたしと永遠にこの家に居るの!!」
「祢亜(ねあ)サン」
「それとも……それともやっぱり、亜澄も和田島京香の方が良いって言うの!?そんなの許さない………許さないんだから!!それ位なら亜澄を殺してあたしも死んでやるわ!!」
「………祢亜サン、落ち着いて」
胸倉をつかまれた苦しい体勢ながら、少しも息苦しさを感じていないように、亜澄は淡々と和泉祢亜(いずみ・ねあ)を制止した。実際亜澄は息苦しさなど少しも感じては居なかった。祢亜の力が弱いわけではない。ただ、亜澄がそういうものを感じない体質なのである。
亜澄の言葉に祢亜は、今にも泣き出しそうな少女の瞳で、すがるように彼を見つめた。必死の形相で亜澄に取りすがる。
「ねぇ、亜澄………お願いだから側に居てよ!!あたしから逃げたりしないで、あんな女のことを考えたりしないで!!それに、あたしから逃げようなんて無理なんだから………この家は清めの塩で囲んであるから、亜澄は絶対に出られないんだから!!」
懇願と、哀切と、憎悪と、脅迫。
ひどく異なる内容の言葉をいくつも操る彼女は、きっと精神を病んでいる、と世間では判断するに違いない。実際、その事実に間違いはないのだから。
ただ、狂わせたのは、亜澄。運悪くも出会ってしまった亜澄の存在が、彼女を狂わせ、これほど取り乱させている。
亜澄は、人間ではない。古くからこの世界に存在している、人外の生き物だ。その歴史はヒトよりも古い。ヒトがこの地上にヒトとして初めて文明を確立するずっと前から、亜澄たちの一族はこの世界に脈々と生きていた。
その生態はいたって簡単。自分以外の存在の生体エネルギーを吸い取ることで命を繋ぎ、同族同士の交尾によってお互いに受精し、生まれた子供にわが身を餌として与えて命を終える。亜澄も、生まれた時には父であり母であった存在の生体エネルギーを吸い尽くし、血肉を一滴残らず喰らい尽くした。亜澄にとって、実際の捕食を必要とするのはその生まれたときの一回だけであり、その後はただのエネルギー補給のおまけでしかなかった。
だから、そのエネルギー補給を容易にするために、亜澄たちはひどく他者をひきつける何かを持っている。ソレが何なのか、亜澄たちにも明確にはわかっていない。ただソレは確かに存在し、いくつもの存在が亜澄たちの前にエネルギーとして身を投げ出すのだ。
たとえば、今ここで亜澄を閉じ込めながら愛を請うて髪を振り乱す和泉祢亜のように。
たとえば、亜澄の父であり母であった存在にエネルギーを与えることを至上の喜びとし、亜澄を残して死んだ後には幸せだった時代の夢を見続ける存在になった育ての母のように。
亜澄は、彼の一族はヒトの精神を狂わせ、人生を狂わせる。そうすることで、彼らは生き長らえている。
―――――だから。
「落ち着いて、祢亜サン……祢亜サンの言うとおり、僕はここから出られない。だから、祢亜サンのそばに居るよ」
「だって……だって亜澄、亜澄は和田島京香のことが好きなんでしょう………」
「でも祢亜サン、僕はここに居る、でしょう?」
あやすような亜澄の言葉に、次第に祢亜の恐慌が収まってゆく。瞳の色に、わずかな正気が混じり始める。
やがて、正気が狂気をわずかに上回ったあたりで祢亜はようやく亜澄の体を放し、すっかり乱れたソバージュの髪をうざったるそうにかき上げた。
「いやだ……もうこんな時間。亜澄、ご飯食べるでしょ。すぐ作るわ」
直前の恐慌を忘れたように日常を始める祢亜に、亜澄は合わせるように頷いて再び畳に寝そべった。祢亜が演じ続ける『日常』に、例えようのない鬱屈を感じながら。
歪んだ日常の果てにあるものを、今はまだ、誰も知らない。