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088.偽者



 この世界にとっての自分は何者なのだろう、とよく考える。それは学校に行く妹を送り出した後にふと青空が目に入った瞬間だったり、仕事先で仲間と笑いあっている瞬間であったり、さすがに妹が大きくなってきて手狭になってきた感のあるアパートから移ろうと不動産屋で物件を見ている瞬間だったり、それはもう様々な瞬間ではあったけれども、思わず考え込む瞬間がある。
  この世界にとっての、自分という存在。リーヴァーヤという真の名を隠し、弓削貞弘(ゆげ・さだひろ)と名乗って平然とこの世界にまぎれて生きている自分という生き物。
  貞弘は4年前、異世界から妹と共にこの世界に亡命し、高ノ宮市に住み着いた異世界の人間だ。市が提供していた適応プログラムを受け、この世界の人間として正体を隠して生きる事を、決めたのは彼だった。妹のために、そうせねばならなかったのだ。
  荒療治とも思えたその選択は幸いにして功を奏し、妹は元の世界に居た頃とは比べ物にならないほど豊富な知識と、何よりあのまま元の世界に居たのでは得られなかっただろう経験を積んだ。思いやりを知り、学ばねばならない知識がある事を知り、その為に努力することを覚えた。何もかも、この世界に来たお陰だ。
  でも、じゃあ、自分は?
  貞弘の存在は、あの世界に居た頃は明確だった。誇り高き戦士、憤怒の女神の化身たる妹を守る忠実な僕。そう在ることが当然で、何の疑問も抱かなかった。妹はそんな貞弘を側に置くのを当然としていた。なのにこの世界に来て、妹は一人で立って歩くことを覚えてしまった―――――貞弘が妹を守らなくても良いと納得しきらないうちに。貞弘は、置いていかれた。
  じゃあこの世界で貞弘は、一体どんな役柄で居ればいいのだろう。良き兄?良き会社員?そのどれもがこの世界に来てから与えられた偽りの役割だ。本当の貞弘がどこにもない。そもそも異世界からやってきた貞弘の存在は、世界にとってイレギュラーだ。
  榊琉衣(さかき・るい)と名乗る女性と会ったのは、そんな風に思い悩みながら日々を過ごしていた頃の事だ。それは本当に偶然の出来事で、たまたまその日も何とはなしに不動産屋の前で手頃な物件を探していた貞弘が、携帯を取り出す拍子に落としてしまったパスケースを拾ってくれたのが琉衣だったのだ。

『あら、あなた、【Pianissimo】のお客様でいらっしゃるのね。実は私もそうですの。ほら、この飾りナイフ』

 そう言って嬉しそうにハンドバッグから取り出して見せてくれたのは、確かに柄の所に【Pianissimo】のロゴが刻まれたもので。それによって貞弘もまた、彼女が自分と同じ適応プログラム出身者で、この世界とは異なる世界を故郷とする住人だ、と知ったのだ。
  【Pianissimo】、と言うのは貞弘や琉衣のように適応プログラムを受ける者が訓練の一環で訪れる、移転課の社会適応訓練協力店指定を受ける雑貨屋だ。この店の特徴はありとあらゆるジャンルの品揃えと、常に店に住み着く閑古鳥である。実際訓練以外の一般客が訪れるのは、年に4・5人もあればいいほうだとか。だから【Pianissimo】のロゴの入ったモノを持っている人間はまず、適応プログラム出身者と考えて間違いない。
  それ以来何となく、顔を合わせると挨拶と共にお茶を飲みながら、わずかに言葉を交わす仲になった。
  琉衣はもう40年以上も前にこの世界に来訪し、適応プログラムを受けてこの世界の住人となった女性だった。いわば貞弘の大先輩だ。数年前までは夫と共に転勤で外部の町で暮らしていたというから、もうすっかりこの世界の住人と見なしていい、と移転課も判断したと言うことだ。それまでは、例えば貞弘にしても妹にしても、まだ移転課が問題が起こらないよう、起こればすぐさま対処できるよう、言葉は悪いが常に監視しているのである。
  ありがたい事だ、と思う。もちろんおかしな問題を起こされたくないとする移転課の事情があるのだろうが、それにしたってまったく見知らぬ異世界で暮らすのに、助けの手が差し伸べられるのは本当にありがたい事だ。それどころか住む場所も、戸籍も、何もかもを手配してくれた。ましてや適応プログラムなんて、まさにボランティアも良い所の制度だ。
  貞弘の言葉に、そうね、と琉衣は上品に相槌を打った。

「私も、市の方々に助けて頂かなければ途方に暮れてしまったと思いますわ。何しろ何も存じませんでしたもの」
「でもご主人は?ご主人もご一緒にこちらに来られたのでしょう」
「主人も、私よりは世界を知っておりましたけれど、やっぱり同じように箱入りでしたもの。もし殿山(とのやま)さんがいらっしゃらなかったら、きっと今頃二人で途方に暮れてましたわ」

 殿山、と言うのは当時の移転課に勤めていた人物と言うことだった。琉衣と夫を移転課まで連れて行き、適応プログラムの存在を教えて世話をしたのも彼という事だ。今でこそ異世界からの来訪者はまず市役所移転課に現れるよう特殊な技術でセットされているが、当時は世界各地に満遍なく異世界からの来訪者が出現し、ちょっとしたオカルトブームを巻き起こしていたらしい。そんな中たまたま高ノ宮市内に出現することの出来た彼女たちは本当に幸運だった、と言うことだった。
  何しろ聞けば、元の世界ではやんごとない姫君と王子だったと言うのだから、その箱入りぶりは想像がつく。そんな彼女たちが何故この世界への移住を希望したのかは、まだ聞いていないけれど―――――そして恐らく、聞きはしないだろうけれど。貞弘がそれを聞いて欲しくないように、彼女たちもまたそれを聞いて欲しいとは思わないだろうから。
  コクリ、と上品に紅茶に口をつけ、琉衣は柔らかく微笑む。

「それでも、私にはこの命を賭してもなさねばならない事がありましたから、ホームシックにはならずに済んだのですけれど、主人の方はしばらくは慣れないことばかりで、気鬱に塞ぐことも多かったようです。何のために自分がここに居るのかが解らなくなった、などと申しましてね」

 ピク、と。貞弘は琉衣の言葉に、上辺だけではない関心を向けた。それはまるで自分のことを言われているような気がしたのだ。
  何のために自分がここに居るのか解らなくなった―――――もとの世界に居たときには明確だったはずのその理由が、この世界にやってきてから見えなくなった。妹のために存在した自分を、彼女が必要としなくなったのにまだここに居る、その理由が。
  その反応に、琉衣は何かを察したらしい。あら、とほんの少しだけ困ったように口元を押さえ、コクリと小さな首をかしげた。けれどもおっとりとした口調を崩さず、次の瞬間には柔らかな笑みに立ち戻って言葉を続ける。

「私と主人が一緒になったのは、こちらに来てからの事ですの。以前に居りました所では、私は別の殿方を夫と呼んでおりましたわ。けれども、どうしてもそこに居られなくなって」
「………」
「お腹には子供も居りました。こちらに来た時は産み月まで半年ほどで、私はそれはそれは大切にその子を慈しみ、生まれるのを楽しみにしておりました。けれども、環境の変化のせいでしょうか、結局その子を流産してしまいましてね。私、その時初めて、もう立ち直れないくらいに落ち込んでしまいましたの」

 何となく、その気持ちは理解できた。琉衣がその夫を愛していたのかどうかは知らないが、その子供が生まれてくるのをそれほど楽しみにしていたからには、きっと夫の事を大切に思っていたのだろう。その夫の忘れ形見とも言える子供が、失われてしまった悲しみ。それはいかばかりのものだっただろう。
  それに、その子はすなわち、もと居た世界との絆でもあったはずなのだ。もといた世界で身ごもった、もと居た世界の子供。何もかもが違うこの世界にやってきた後はきっと、その子供こそが彼女ともと居た世界との絆であったはずなのだ。
  その絆が失われた悲しみを、貞弘はきっと理解できる。立ち直れるかどうか解らないほどの悲しみを、貞弘はきっと共感できる。
  けれどもそんなものをもうとっくに乗り越えた強さで、琉衣はにっこりと微笑んだ。

「そうしたらね、主人が逆に、自分がしっかりしなければ、と思ったみたいで、見る見るうちに元気になってしまいましたの。その時はまぁ本当に、あきれるばかりの回復振りでしたよ」
「それ、は……その……何も思われなかったんですか………?」
「そんなに私に子供を生んで欲しくなかったのか、って?そりゃあ思いましたわ。正面から詰りこそしませんでしたけれど、そんなにあの子が死んだのが嬉しいのかしら、って思いました………でも、そんな人じゃないって解ってましたのよ。主人はね、本当に気の良い人ですの。私のせいで死に掛けたこともありましたのに、それでもずっと側に居てくれるくらいに、本当に良い人ですの」

 うふふ、と琉衣は笑う。

「だから私も立ち直る事が出来たんですのよ。そうして主人と一緒になって、子供も生まれて、ようやく私は私の役目を果たすことが出来た、と心から安堵したのです」

 私のお話しでお役に立ちますかしら?と上品に琉衣が首を傾げるのに、コクリ、と一つ頷いた。もちろんその状況をそのまま自分に当てはめることなど出来はしなかったけれども、それでもその話を聞けて良かった、と思ったのだ。
  恐らく世界も、事情も違う彼女の話が、まるで貞弘に許しを与えてくれているような気がした。この世界に居ていいのだと。この世界で、自分で、自分の役目を見つけていいのだと。それは許されることなのだと。
  いつかは戻る懐かしい故郷は、それを許すのだと―――――そう言われた気がして、貞弘はまた一つ、小さく頷いた。それで良いのだ、と。

 

 青年はそうして、妹の背を追って一歩を踏み出した。


.....fin.






多分この話を読む方で長編メルマガの方の読者さんはいらっしゃらないだろうのでネタばれ。

今回登場の上品な老婦人は《嘆きの鳥》シリーズの誇り高き皇女です。

一体何があってこんなことになっているのか蓮華が一番知りたい(待て)

ちなみに主人・息子・娘は既出ですので興味がある方はお探しください。

……………他にコメントないのか(死)


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