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眠れる森のエデン


9.


「とにかく、このまま赫闇ヶ原に居てもしょうがないよ」

 くるんと深緑の瞳を回しながらのスニの言葉には瑞貴も渋々肯いて、疲れ切った重い腰をようよう持ち上げた。
 確かにこのまま赤茶けた闇の中でへたり込んでいる訳にもいかないだろう。瑞貴にとっては右も左も判らないからどちらでも良い事だったが、このままじっとしていた所で事態が改善するとも思えない。
 ちちっ、とスニの肩の上でグリュンデンヒルトが鳴き、ぴくぴくと耳を動かした。瑞貴がついてくる事には不満なようだったが、移動する事には賛成なのだろう。
 スニの左手がごそごそとトレーナーの前ポケットを探って、空色の丸い物体を掴み出す。もう何が出てきても驚かない、と瑞貴は空色を見詰めながら思った。
 ぽい、と宙に放り投げると放物線状に落下して、地に付く寸前にふわりと空気のクッションに当たったように落下を止める。同時に純白の翼がばさりと広がって、そのまま力強く再び宙に舞い上がった。
 ばさっ、ばさっ、ばさっ・・・・・・・・・・・
 はばたきながらスニの上でくるくると円を描く空色の球体を見上げる瑞貴に、同じようにその球体を見詰めていたスニがにこにこと笑いかける。

「空卵(そらたまご)だよ。鏡幻塔(きょうげんとう)まで道案内してくれるんだ」

 カーナビみたいなものだろう。
 そんな感想を抱いたが、それが通じるとは思えなくて瑞貴は押し黙ったままだった。そもそもスニが車を知っているかどうか怪しいし、知らなかった時にどんなものか説明できないだろう。
 瑞貴にとって車は車で、それ以上の何者でもなくそれ以下の何者でもなく、それが通じないだろうこの場所がたまらなく嫌だった。そして、それが通じない事を受け入れている自分はなおさら嫌だ。
 だから黙りこくったまま、何とはなしに制服のポケットを探った右手が、硬い何かを掴む。
 掴み出してみるとそれは、瑞貴が日々持ち歩いている使い古した単語帳だった。それほど熱心に見ていた訳ではないが、端の方が汚れてよれてしまっているのは、ずっとポケットに入れ続けていたからかもしれない。
 ぱら、と硬い表紙をめくってみれば、飛び込んでくるのは自分の汚い字でつづられた、とっくに覚えてしまった英単語の数々。いつしか単語帳を作る手間すら面倒くさくなって、瑞貴の片手には単語帳の代わりに参考書や英単語本が握られるようになった。
 ぎゅ、と古びた単語帳を手の平に握り込む。

「ミズキ、大切なもの?」

 ス二が興味津々と言った感じで真ん丸な深緑の瞳を輝かせながら聞いてきて、瑞貴はそんな彼の瞳を見下ろしながらちょっと首を傾げて考えて、そうね、と肯いた。
 肯きながら硬く硬く単語帳を握り締めて、もういちど空にはばたく球体を見上げる。生き物なのかそうでないのかすら判らない、純白の羽を力強くはばたかせ続ける空色の球体。

「とても大切なものだわ―――――」

 明らかに有り得ない光景だけが広がるこの世界で、有り得ない生き物達を相手にして、それが真実異常な出来事なのか異常と感じる瑞貴こそが異常なのか、もしかすれば今までの自分の方が間違いだったのではないか。
 この単語帳はそんな思考のループから瑞貴を救う、たった一つのものに思えた。持っていた鞄は先刻どこかに放り投げてしまって見つけられないし、目の前の子供は深緑の瞳とお揃いの緑晶石の涙のようなピアスをしているし、その子供の肩で三つの紫水晶の瞳を持った純白の獣が黒コウモリの羽を広げたまま威嚇し続けているし。
 間違いなく、こちらが異常で。
 瑞貴の居た現実に、どうしても戻らなくてはならなくて。
 それを忘れない為にも、この単語帳はとても大切なものと言えた。瑞貴の汚い字で綴られたとっくに覚えてしまった英単語が、瑞貴と瑞貴の現実を繋ぐか細い糸になる。
 にこにことスニが嬉しそうに満面の笑みを浮かべて瑞貴を見上げた。

「良かったね、ミズキ。大切なもの、無くさなくて」
―――――ちちぃ
「ほら、グリュンデンヒルトも良かったって言ってるよ」
「それは嘘でしょ、絶対・・・・・・・・・・・・」
「ホントだよ。グリュンデンヒルトは優しいもん。ミズキの事もちょっと怒ってるけど、でも一杯心配だってしてるよ!」
「ちょっと?」
「あ・・・・・・・・・えっと、かなり、怒ってるけど・・・・・・・・・・・・」

 そうだろうとも、とため息を吐いて紫水晶の瞳を見下ろした。
 この、薄々と殺気すら感じられるような睨まれ方で「ちょっと」なら、世の中の人間は随分と忍耐強いイキモノだ。よっぽどこの獣は、この小さなご主人様の事が大切らしい。
 スニはスニでグリュンデンヒルトの事を「恋人」だなんて言ってるし。

(無邪気なもんだわ)

 出会った時からにこにこ笑ってばかりの子供に、瑞貴はもういちどため息を吐いた。ペットが恋人だなんて、その言葉を誰かに教えられて覚えて使ってみたかったのだろう。この年頃ならそう言ったことに変な好奇心が旺盛になっておかしくない。
 瑞貴はどうだっただろうと小学校の頃を探ってみたけれど、あまりはっきりとした思い出はなかった。やっぱり今と同じように高ノ宮高校に行く為に小学生の自分から塾に通っていて、周りの男子にあまり興味はなかったし。
 けれどもクラスの女子はそう言えば、きゃいのきゃいのとよって集まってはダレダレ君がカッコイイとか何とか、恋に恋するような噂話に花を咲かせていた、気がする。そもそも興味が無かったから、はっきりと覚えてはいないが。
 なんにしても幸せな事だと、皮肉たっぷりに瑞貴は考えた。今の瑞貴にとって高校に行く以上に大切な事はなく、それ以外に心を砕いていられる人間はくだらない限りだった。



 【静かな赫い森の中で、不意にざわめくモノが聞こえた。】


to be continued.....


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