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刻告鳥の世這う朝


第八十三羽


 判明した意外な真実はともかくとして(ただし後できっちり問い質そうとサガは心に決めた)、問題は皇女アニエスの真意がどこにあるかだった。
 この少女は「第三の道」を示すことが出来る、と言った。それは多分貴族特有の傲慢さからだろう。彼らは世界が自分の思い通りになることが当然だと思っている。ましてまだ成人したばかりで、ずっと帝城の後宮で育てられてきた皇女であればなおさらだ。
 アニエス様、とファレアが乾いた唇を湿らせて言った。ファレアはアニエスのその感情も、そしてこの町にそんなものがありえるはずもない、と言う事実も知っていた。
 ターニャ・ドーランは罪を犯した。下町におけるルールを破ったのだ。幾らこの町が生き馬の目を抜くような、食うか食われるかの世界であると言っても、最低限の同胞に対する憐憫はある。それを犯したターニャの罪は、本来なら死を持って購われるべきものだった。
 この町から出て行く、と言う選択肢を許したこと事態が異例なのだと、誇り高い皇女は知っていた。帝城と下町は、まったく正反対に居るはずなのにそんなところでひどく良く似ている。罪を犯したものには徹底的な制裁を加え、ルールから逸脱したものには罰を与えなければならない。それを遂行して組織を保っているのが下町であり、高位ゆえの驕りによって腐敗しているのが帝城だ。
 同じく人々をまとめねばならない立場にあるからこそ、ターニャに放逐と言う選択肢を与えたのが精一杯のサガの慈悲なのだ、とファレアには判っていた。それ以上の選択肢は、最初から存在してはならないのだ。
 だが、アニエスはどこまでも傲慢であるがゆえにどこまでも無邪気に笑う。手にした扇をはらりと開き、口元を覆い、肩を震わせて楽しそうに笑う。

「いかに下品な色町の女と言えど、目の前で死なれるのは寝覚めが悪いですもの。もっとも、野蛮なゴロツキ風情と懇意にしていらっしゃる預言の姫には、私の申し上げる心の機微などご理解にはなれませんわね」
「アニエス様、彼女は罪を犯したのです。その罪を裁くのも、許すのも、アニエス様ではなくサガですわ」
「まぁ、慈悲深い預言の姫とも思えないお言葉ですわね。あのリンズーの娼童に垂れてやったような慈悲を、この娘にもくれてやろうとは思われませんの」

 ファレアを嘲笑し、侮蔑して、アニエスは生き生きと輝くばかりの笑みを零れさせた。普通、こんな時にはわずかなりとも意地の悪い、底の透けて見えるような感情が混じるものだが、アニエスの笑みにはそれがない。心底楽しげに笑っている。
 惜しい娘だ、とこんな時サガは思う。ファレアのそれと種類は違えど、アニエスが心の中に抱える誇り高さはファレアと同等かもしれない。それがどんな感情に根ざしていたとしても、ここでこれほどの、清々しいとすら言える笑みを浮かべられるこの娘が、自分の敵に回ろうとしていることがサガには残念で仕方がない。
 ファレアといい、アニエスといい、皇帝家の女はどこか神経が切れている。
 そう思いながらサガは渋面をゆっくりと崩し、代わりに侮蔑の表情を浮かべた。アニエスがそういう態度に出るなら、こちらはそれなりの対応をするまでだ。
 せいぜい凄みを効かせて見える笑みで、アニエスを嘲笑した。

「勘違いすんなよ、おひぃさん。俺たちにゃ、あんたらお貴族様に許して恵んでもらう必要はねぇよ」
「ふん、選ぶのはその娘ですわ。ねぇ、そこのお前。預言の姫が、嫌いでしょう?」

 サガの態度に、一ミリもアニエスはひるまなかった。むしろよりいっそう楽しげに肩を揺らして、手にした扇をパチン、と閉じるとまっすぐターニャを指し示す。
 突然話を振られたことに、ターニャはひどく驚いたようだった。ただ一つ残った左目をぎょっと丸くして、訝しげに遠慮のかけらもなくアニエスを上から下までじろじろと観察している。これはとくにターニャが無礼なわけではなく、下町の住人に対するお貴族様一般への対応、と言うのは大体こんなものなのだ。
 そろそろドーリーの感覚麻痺も切れてきたのだろう、ターニャは時々顔面の筋肉をぴくぴくさせて痛みを堪えながら、無愛想極まりない声で吐き捨てた。

「………だったら何」
「私も預言の姫が嫌いですの。だからお前、私の侍女におなり。私がお前を召し上げてあげますわ」
「は………?誰が貴族の犬になんかなるってのよ!」
「そうですわね。きっとお前、惨めですわ。私の侍女たちは皆身元のしっかりした貴族の娘ばかり。そんな中に後ろ盾のまるでない、下町の薄汚れた、しかも娼婦上がりの娘が紛れ込んだら、ずいぶんと惨めですわね」
「………ッ」
「でもお前、たとえ地に這い蹲ってでも預言の姫を呪って見せるのでしょう?ならばその位のこと、耐えて御覧なさいな。そうしてせいぜい預言の姫に一矢を報いて、私を楽しませて御覧なさいな。それが出来ないのなら最初からどこぞの男に囲われて薄汚い牝犬としてお過ごしなさいな」

 アニエスの言葉は、あくまでも無邪気で透明であるがゆえに残酷にターニャの心に染み渡った。そうだ、例え生きて生きて生き延びて、血反吐を吐いて泥を食らって生き延びたとして、何の後ろ盾もない身の上でどうやってファレアに一矢報いてやれるというのだ。せいぜいが帝城を恨めしげに見上げて呪いの言葉を吐いて暮らすくらいではないのか。
 そっと右目の潰れた顔に手を当てる。この程度でファレアを亡き者に出来るのなら安いものだと思っていた。けれど結果はどうだ。ターニャは無駄に右目を失っただけで、何も手に入れていない。状況は何も変わっていない。ただターニャがサガに本気で拒絶され、居場所を失った、と言う事実が残っただけではないか。
 ギリ、と歯軋りする。下町に生きる人間として、お貴族様の慈悲にすがるのはもっとも恥ずべき、耐えがたき屈辱だ。その位なら死んだほうが良いと、本当は今でもターニャは思っている。お貴族様なんて嫌いだ。それは下町に生きる人間なら当然の感情。
 けれども何より、ターニャはこの、サガに守られて当然のように彼を独占する、水晶の姫の異称を持つ皇女が大嫌いだったから。

「……………乗ったよ、おひぃさん。あんたに飼われてやる。せいぜいあたしを蔑むが良い」
「ターニャ!」
「ごめん、ドーリー姉さん。でもここに居られないなら、どこでだって一緒でしょ?」

 ターニャの宣言に、ドーリーが絶望的な声を上げる。けれどもそれに笑って堪えるだけの余裕を、ターニャ・ドーランは取り戻していた。そうだ、せいぜい好きなだけ蔑み、嘲るがいい。そんなことでこの心はもはや傷ついたりしない。〈風の色町〉に売られてきてからも売られてくる前も、非人間的な扱いなら幾らでも受けてきた。
 決然と顔を上げ、唇の端だけでにっと笑ったターニャに、アニエスは満足そうに目を細めて頷いた。それから背後に立っているはずの敬愛する兄アストレイを振り返り、微笑んで優雅に礼を取る。

「お聞きの通りですわ、アスト兄様。アニーはこれよりお母様とともに、預言の姫の敵に回ります」
「アニー、それは良く考えてのことかい?」
「勿論ですわ」

 半ばそれを予想していたのだろう、驚きもせず応じたアストレイに、アニエスはにっこりと微笑んだ。パンパン、と手を叩いて馬車の中に連れてきた侍女を呼び、ターニャ・ドーランに手当てを施すよう命じる。
 侍女がターニャを連れて馬車の中に戻ると、改めてアニエスはアストレイを見上げた。

「アスト兄様はすでに成人もなさり、後宮に立ち入ることは叶わぬ身。私とはこれを最後に、儀式の折以外にはお会いすることもないですわね」
「―――――そうだね、可愛いアニー」

 妹の言葉に、アストレイは微笑んで答えた。その言葉にアニエスも満足そうに微笑み、それじゃ、と短い別れの言葉を残して自らも馬車の中へと消えていく。バタン、と扉が閉じられると同時に、あらかじめそういい含められていたのだろう、御者が馬に鞭をくれた。
 ガラガラガラ……………
 アニエスとターニャと侍女の三人を乗せた馬車が去っていくのを、アストレイは最後まで微笑んで見送った。もっともサガは相棒のソール以上に、この〈静の皇子〉の異名を持つ青年が微笑み以外の感情を見せたところを知らないのだが。
 代わりに慌てたのはファレアだ。もちろん傍から見ればそれと判らない程度のものだったが、かすかに上ずった声までは隠しきれて居ない。

「アストレイお異母兄様。アニエス様が……………!」
「やはり、ファレア姫は御慧眼ですね」

 けれどもアストレイは、直接はファレアの言葉には答えなかった。最初からこうなることが判っていたように、婚約者である異母妹の顔を見て面白そうに笑う。その微笑みはまるで彼の双子の片割れを思わせた。
 え、とファレアが何を言われたのか判らない様子で声を漏らす。だがすぐに〈読心力〉でアストレイの言いたいことを悟ったらしい。見る見るうちに顔色をなくし、「そんなつもりじゃ………」と困ったように呟く。
 アストレイが笑った。すべて判っている、と言うように。

「ここだけの話ですが、アニーは貴女への反抗も敵対も、自分が立つ立場やあなたという存在の何たるかについてすら、何もかも理解しているんです。私たちの母エウフェニアは夜毎日毎、私たちに貴女と貴女の母君に対する怨嗟を聞かせて育てました。自分よりも格下の皇妃ツェツィが寵愛される事実も、その子が〈伝説を生むもの〉の真名を持つ聖女であることも、私たちの母には気に食わなかった―――――そして何より、それほど気に食わない貴女がたを排除出来ぬ絶対的な身分差というものを恨んでいるのです」
「アニエス様が私をお厭いになるのは、それ故なのですか……?」
「まったく関係がない、とは申しません。確かなことは、いつかファレア姫が仰ったとおり、アニーはすべてを理解した上で貴女に敵対する立場を取った、と言うことですよ」

 それは妹に対する親しみと愛情のこもった、柔らかい響きを持つ言葉だった。

 


to be continued.....


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