home
判らない語句はこちらから検索→  
writing fun connect renka
novel poem word&read juel chat mail profile book

 

はじまりのない街


帝国暦416年 大地節 1月23日〜波紋

 

良いコトと悪いコトの違いなんてね、本当はたいしたもんじゃないわ。良いコトをしたつもりなのに悪いコトをしたって思われる時だってあるし、本当は悪いコトをしたのに良いコトをしたって褒められる時もあるしね。だから大切なのは、その時にちゃんと考えることよ。何で悪いコトをしたって怒られたのかとか、何で良いコトをしたって褒められたのか、とかね。それだけよ。


 しとしとと霧が立ち込めるように降り始めた雨は、三日過ぎても上がる気配を見せなかった。それは〈大地節〉の雨にはよくあることだ。何よりこの雨が土壌をたっぷりと湿らせ、ティクルについで主食として食べられることの多いタガトゥラと言う根菜を太らせるのだから、まったく〈大地の女神〉ディオナの深い知恵には感謝するより他がない。
  だが、スウェイの婚約者であるカンヴァス家の公女ベリリアにとっては、この季節はあまり体調の優れない、気鬱の続く時期らしい。ちょうど一年ほど前に婚約が決まったばかりのスウェイは知る由もなかったが、ベリリア付きの侍女ビビによれば毎年この季節は、ベリリアは殆ど寝台から起き上がろうともせず、言葉すら殆どしゃべらなくなってしまうのだ、と言う。
  それは無理のないことかも知れない―――――そんな理由で今日もベリリアへの見舞いが許されなかったスウェイは、代わりに珍しく館に戻っていたカンヴァス伯爵に呼ばれて普段は足を踏み入れないカンヴァス家の客室に居心地悪く座りながら、ため息を吐く。生まれながらに体が弱くてめったに寝台から起き上がれないベリリアにとって、楽しみといえばビビが話したり見せたりしてくれる物語と、あとは窓の外の移り変わる景色だけだ。その楽しみのうちの一つが〈大地節〉には殆ど封じられてしまうのだから、気鬱にもなるだろう。
  まして両親は仲が悪く、ベリリアには血を分けた兄弟も存在しない。ほとんど寝たきりだから、年頃の貴族の娘たちと友達になったり、おしゃべりをしたりする機会もない。文字通り、スウェイが婚約者としてベリリアを訪れるようになるまで、彼女はいつもビビとたった二人で過ごすしかなかったのだ。
  カチャカチャ、と見慣れない侍女がティーカップを並べてゆくのを見ながら―――――新参の侍女と言うわけではなく、普段ベリリアの元以外訪れないスウェイは、ビビ以外の侍女との面識が殆どないのだ―――――そっとカンヴァス伯爵の顔をうかがう。スウェイは昔から、この人が苦手だった。何を考えているのかがわからないし、いつも向けられる見定めるような視線が居心地が悪くて、うっかり出会った日にはいつもキファナやチェイスの後ろに隠れていた。
  その視線は今でも変わらない。ベリリアの婚約者とその父、と言う間柄になってすらカンヴァス伯爵は、いつも値踏みするような視線をスウェイの上に注ぐ。それは、カンヴァス伯爵の帝城における地位が〈儀典監査〉という、儀典一般を司るアル=カーデャー家とは正反対の、出来るだけ儀典の無駄をなくすための監査役と言う立場にあることを思えば、決して不自然なものではなかったが。

(それに、アル=カーデャー家の人間が娘の婚約者であれば、値踏みしたくもなるでしょうね)

 自嘲気味にスウェイはそう考え、目の前に置かれたティーカップを取り上げた。下町で出されるお茶とも、キファナと飲むときのお茶とも違う、カンヴァス伯爵家の領地レヴァインがある北方特産の、柔らかな香りと濃厚な味が特徴のリーフ茶だ。フォレシア帝国は肥沃な大地ではないが、豊かな森林と湖水のおかげで茶の種類だけはひどく豊富だった。
  〈犯罪者〉アル=カーデャー家。15年前、当時の当主ラピュロス=ビーン・アル=カーデャーが犯した12人もの無差別惨殺事件により、それまでは帝国一由緒正しい家柄だったアル=カーデャー家の権威は、文字通り地に落ちたのだ。《フォレシア建国神話》に唄われる〈伝説の大地〉の守人としてのアル=カーデャー家は絶え、殺人者として人々から後ろ指を刺される存在に成り下がった。
  今の地位があるのは、事件後も変わらず儀典一般を司る一族として帝城に上がることを許されているのは、リネアラのお陰。『罪を犯したものの一族はすべて刑に処せられるべし』という今は廃止された帝国律法により生まれる前に命絶たれんとしていた自分たちを「ならず」と救ってくれた、名前をくれた、何より愛してくれたかの〈炎の姫〉のお陰。
  だが、と同じくティーカップに口をつけるカンヴァス伯爵を観察しながら、冷静に考える。それでもまともな思考があれば、アル=カーデャー家とわざわざ縁戚を結びたい、と考える貴族は居ないはずだ。表面上は事件前と変わりなく扱われていても、やはり犯罪者を出した家系はそれだけで忌避される。
  そのアル=カーデャー家に対して、カンヴァス伯爵家が一人娘ベリリアとの婚約を申し入れてきたのが、去年の夏のことだ。それも通常ならまず書簡で遣り取りするところを、カンヴァス伯爵自らアル=カーデャー家を訪れて、スウェイ・アル=カーデャーをカンヴァス伯爵家の入り婿として貰えないだろうか、と申し入れに来た。
  思い出す、あの日。突然の申し入れにさすがに驚きを隠せなかったスウェイの前で頭を下げたカンヴァス伯爵は、けれども視線だけはあの値踏みする冷たいものだった。冷徹に観察する観察者の瞳だった―――――
  カチャ、とカンヴァス伯爵がディーカップを置き、表面上は穏やかな笑みを浮かべる。

「突然悪かったね、スウェイ殿。私は知っての通りあまり屋敷にはいないものだから、久しぶりに婚約者殿と言葉を交わしたい、と思ってもなかなか機会がなくてね」
「いいえ、伯爵―――――いつでもお呼びくだされば参りましたものを」
「いやいや、まだ年若い婚約者殿を埒もない話に付き合わせるのも悪いし、娘にも叱られてしまう。それでも以前は、ブロンクス街ではよく顔を合わせたものだけれども―――――最近は色町通いを自粛されているとか」
「はい。母より勉学に身が入っていない、と叱られましたので」
「ふむ、それはご謙遜だ。【学院】でも弟御のチェイス殿には及ばずながら、常に優秀な成績を収められていると聞く」
「恐れ入ります」

 深々と頭を下げると、カンヴァス伯爵は興味深そうに瞳をくるりと回し、含むような笑いを漏らした。すでに貴族たちの間にまことしやかに広まっているという、あの「スウェイ・アル=カーデャーは同性しか愛せない」という噂が、この人の耳に入っていないはずがない。それを察していながらまことしやかな理由を述べるスウェイを、おそらく面白いと思っているのだろう。
  とかく、カンヴァス伯爵はよく判らない人物だ、と言われる。そもそも隣国に外交に行った際に先方の外交官の娘に一目惚れし、そのまま彼女を妻として連れて帰ってきた、と言う遍歴だけでもその一端がうかがえる。だが生前は外交に力を入れており、時には自ら率先して隣国パティリエ王国を訪問もしていた時の聖女シキレイアル=リネアラは、むしろカンヴァス伯爵のそういう所が気に入って〈儀典鑑査〉の任を与えたのだとか。
  カンヴァス伯爵は穏やかな笑みを湛えたまま、ゆったりと体をソファに預け、手を組んだ。

「謙虚であられることだ。しかし己の能力に驕るよりは良い。娘も良い婚約者殿に恵まれた―――――或いはあのまま、一人きりで旅立たねばならぬか、とも思っていたが」

 あくまで穏やかなカンヴァス伯爵の言葉に、もう一度スウェイは「恐れ入ります」と頭を下げた。カンヴァス伯爵も、スウェイも、周囲のものも理解していたのだ―――――公女ベリリアの命は、いつ掻き消えてもおかしくはないのだ、と言うことを。
  フォレシア人は多くの場合、双子としてこの世に生まれる。《フォレシア建国神話》によればそれは、生死の神々が双子だからだ。双子と言っても二人で生まれてくるだけだから、別に顔が似通っているわけでもないし、時々は三つ子や四つ子の場合だってある。例外的に一人しか子供が生まれないのは、それが〈神の愛し子〉だった時だけだ。
  だがその双子の中でも、たまにたった一つの肉体を分け合って生まれてくる子供がいるのだ。そういう場合、その双子は必ず同性で、似通った顔立ちと魂を持っている。そして滅多に、両方が成人を迎えることはない―――――ベリリアはそういう双子として生まれ、過去からの事例通りにひ弱な体と魂を持っていたために、寝台から滅多に起き上がることも出来ない、明日をも知れない命を抱えて育ってきた。
  或いは、外国の血が混ざったのが良くなかったのでは、と言う者もいる。ベリリアの母親はパティリエ人で、パティリエ人はフォレシア人とは異なり、生まれながらに不可視力を持たない民族だ。フォレシア人と他国の民は種族からして異なるのだ、とする学者もいる。そんな二つの血の間に生まれたベリリアだから、これ程までに体が弱く生まれついたのではないか、と言うのだ。
  いずれにせよはっきりしている事は、現在のままでは遠からずベリリアは死ぬ。そしてべりリア以外に後継者を持たない―――――ベリリアの双子の妹メルヴィーナは生まれて三日で衰弱死した―――――カンヴァス伯爵家は後継者を永遠に失う。それを避けるには一刻も早くベリリアの夫を定め、後継者を作るしかない。
  本来なら良家の子女は17歳の誕生日に婚約者を定めるのが普通にも拘らず、16歳のベリリアと14歳のスウェイの仮婚約が正式なものとして扱われているのは、それが理由だ。もっとも、客観的に見ても今のベリリアに、スウェイとの間に子供を作って生むだけの体力すら、残されているようには誰の目にも見えなかったが。
  それにしたってアル=カーデャー家との婚約、と言うのは思い切った決断と言える。いくら急ぐとは言え、本来ならもっと「マトモ」な家柄の子息を入り婿に迎えたかっただろう。だが現実問題として、いつ死ぬとも知れないベリリアの夫になりたがる者はそうはいなかった。正確に言えば財産目当ての男なら十分にいたのだが、それはさすがに伯爵家の方が許さなかった。
  だからアル=カーデャー家、なのだ。堕ちたりとは言え家柄的には十分で、表向きは地位も保っており、皇帝家からの信頼も厚い。まして好き好んでアル=カーデャー家と縁戚を結びたがる人間は前述の通り皆無だから、逆に言えばアル=カーデャー家としてもスウェイの婚約者を探しあぐねていた―――――15年前に実の母を惨殺し、その他にも11人もの罪のない国民を嬲り殺して死刑に処せられたラピュロス=ビーン・アル=カーデャーを父に持ち、その双子の妹を母にもつアル=カーデャー家の子供たちは間違いなく、帝国にとっての鬼子だった。
  チェイスやキファナがスウェイとベリリアの婚約を快く思っていなくても、何も言えないのもそれが理由。この話を断ってしまったら、きっとスウェイには二度と婚約なんて話は訪れないだろう。それは予想と言うよりは確信に近い。だからどんなに気に入らなくても、黙っているより他にない。
  だが、カンヴァス伯爵家はふと思いついたように、知っているかね、と意外な言葉を口にした。

「スウェイ殿との婚約は娘のたっての望みだったのだよ」
「………は?」
「信じられないかね?正直、私も聴いた瞬間には耳を疑ったものだがね。ベリリアは、どうせ婚約するならスウェイ殿でなければ嫌だ、と言ったのだよ。あの食事の好みすら滅多に口にしない娘が、そう言って聞かなかったのだ」

 聞かされた意外な言葉に、スウェイは驚きを隠しもせず、真偽を確かめるようにカンヴァス伯爵の顔を見上げた。それほどその言葉は意外で、信じ難いものだった。
  誓って、婚約より以前にスウェイはベリリアと会ったことはない。それどころか名前もろくに知らなかったほどなのだ。それなのにベリリアは自分を名指しで指名して、自分でなければ嫌だ、と言ったという―――――アル=カーデャー家の人間であるこの自分をだ!
  疑うような視線を向けるスウェイに、カンヴァス伯爵は苦笑した。

「娘は子供の頃から〈炎の姫〉に憧れていてね、昔は大きくなったら〈炎の姫〉みたいになるんだ、と言っていたものだよ。さすがに最近では言わなくなったがね―――――だから〈炎の姫〉がもっとも可愛がっておられたと言うスウェイ殿に娘は憧れているのだ。〈炎の姫〉に憧れるようにね」
「姫様に、ですか………」

 スウェイはぼんやりと呟いた。
  〈炎の姫〉シキレイアル=リネアラの物語は、帝国の民であれば誰でも知らないものはない。人生のほとんどを寝台の上で過ごしてきたベリリアとて、寝物語に幾度も〈炎の姫〉の話を聞いたことだろう。その話があの、風が吹けば折れてしまいそうに儚いベリリアにとって、胸が踊るようにワクワクするものだったことは容易に想像できた。
  その憧れの姫が可愛がっていたから、スウェイと会ってみたい。どうせ婚約するのならスウェイと婚約したい。憧れの姫様が可愛がっていたと言う子供を、一度で良いからこの目で見てみたい。―――――そう、ベリリアは考えたのに違いないのだ。
  あぁ、とため息をつく。いつも姫様に守られている自分を、自覚せずにはいられなかった。かの姫があれほどまでに自分たちを愛してくれなければ、間違いなく今の自分はここに存在しない。そもそも生まれても居ないはずだ。アル=カーデャー家に連なるものたちの死刑に反対したのはたった一人、〈炎の姫〉だけだったのだから。
  思わずうつむき、ギュッと拳を握り締めた。強く、リネアラのことを思った。いつだって強気に笑ってまっすぐに自分たちを愛してくれた、帝国でもっとも尊い女性。今は亡き、得難き人。その人の恩情の上にある今を知りながら、スウェイは果たして、その恩情に報いられるような行動を取っているのか?かの姫の名を汚してはいないのか………?
  ―――――コンコン、と沈黙の降り積もる部屋にノックの音が響いた。カチャ、と返事も待たずに開けられた扉の向こうから聞こえる低く柔らかなテノールが心地よく耳を打つ。

「―――――失礼。伯爵、ご挨拶に伺いましたよ。リザリア姉さんのお見舞いも終わりましたし、僕はこれで失礼することにします」
「………ニチェ?」

 そのあまりに懐かしい声色と、続いて現れた美しい少年の横顔に、スウェイは知らずソファから立ち上がり、呆然と彼の名前を口にした―――――もう半月以上会っていない、色町ブロンクス街の娼夫の名を。






<back<     ∧top∧   >next>





top▲