どんな夢を見て
どんな願いを感じて
どんな世界を創ったならば
君は僕のそばに居てくれるのだろう
◆
千草(ちくさ)姫が月央(つきおう)の元を訪れるのはいつも、大きく丸い満月が闇夜を密かに照らし出す頃だった。
満月が天の一番高いところにかかった刻に生まれたから、月央。
そんな安易な理由で付けられた名前は、
けれど千草姫が「綺麗」だと言ってくれたから、月央の一番大好きなモノだった。
満月のかかった透き通る空の下で、はかなげな微笑みを浮かべて千草姫が「月央様」と呼んでくれるのが、
他の誰に呼ばれるよりも月央は大好きだった。
千草姫は、唯人ではなく天人なのだと父は言った。
千草姫の従者である青年沙我弥(さがみ)は、父が月央よりも幼い時分からわずかにも姿を変えぬ、
不思議の民であると言う。
その沙我弥が、千草姫をして月に住まう貴姫と千草姫の前に膝を折る、だから天人なのだと、
くり返しくり返し父は月央に説いて聞かせた。
父は多分、分かっていたのだ。
月央が千草姫をいつしかただ一人の姫として想うようになるのだと、父はきっと気づいていたのだ。
幼い頃にただ一度出会った沙我弥を、焦がれるように兄と慕った自身を知っていたからこそ、
姉と呼ぶその気持ちがいつしか変わってしまうのだと多分、確信にも似た予感を抱いていたのだろう。
それは実際、現実のものとなった。
それこそ月央が生まれた頃から姿変わらぬ千草姫を、姉と無心に呼んでいられた時間は少なかった。
十の歳を越える頃には月央は、千草姫の態度が変わらずただ優しいそれであることに苛立ちすら覚えていた。
馬鹿ね、と真実月央と父母を同じくする姉十六夜姫は嘲ったが、
その姉もまた沙我弥に恋心を抱いて苦しんでいたのだから同じ穴の狢だ。
あるいはだからこそ、同じ過ちを犯す弟を嘲わずには居れなかったのかもしれないが。
満月の夜ごとに月央たち一家をおとない、数日滞在してはまた月に還って行く不思議の姫に、
今年十五になる月央はけれど未だ、秘めた想いを打ち明けられずに居た。
―――――月央は生まれつき、身体がひどく弱かった。
生まれた時から毎年繰り返し、今年の夏は越えられないだろう、今年の冬こそはかなくなってしまうのではないかと、
決まって主治医は眉をひそめた。
ようようこの歳まで生き長らえたが、それでも月央自身にすら、それが「生き長らえた」のだと嫌と言うほど分かっていた。
あるいは沙我弥のおかげだったのかもしれない。
月央が苦しんでいる時、決まって沙我弥の気配は身近に在った。
姿は見えずともそれが分かった。
沙我弥によって、ようやく生き長らえているだけの自分。
もしかしたらとうに、この世の者ですらなかったのかもしれない、自分。
そして千草姫は、月の世に在ってすら貴姫なのだと沙我弥は言った。
千草姫と婚約を整えたことによって、月の王国を束ねるものと認められた少年が居るのだと、言った。
死の影色濃く付き纏う月央に―――――何が、言えたというのだろう?
千草姫もまた、天人であるからなのか、滅多に感情を面に出さぬ姫だった。
月央を見てはかなく笑うその他は、従者の沙我弥にすらそうそう感情の機微というモノを見せなかった。
そう育てられたのだと沙我弥は言ったが、千草姫自身はその事にすら何も反応しなかった。
ただ姫は、月央の名を呼ぶ時にだけはかなく、かすかな笑みを浮かべる。
今にもゆらりと消えてしまいそうな微笑みで、月央を呼ぶ。
けれどもそれをもってして《特別》といってしまうには、千草姫はあまりにも遠い世界の人だった。
千草姫は、何も言わない。
月央も、何も言わない。
何も言わないままに時を重ねて、もうすぐ月央は十六になる。
◆
月央が十六になる夜も、やっぱりそれは満月で、
そして千草姫はやはり彼ら一家をおとない、しばしの間世話になると小さな頭を滑らかについと下げた。
それは月央が十六の歳を迎えたことを祝う、本当にささやかな祝いの宴の席のことで、
父は当然のように姫を上座に据え、その従者共々みずから姫をもてなした。
こくり、と千草姫の首が、鷹揚にかしげられる。
「月央様は、十六になられましたのですね」
「はい、おかげでどうにか」
「そう―――――私がこちらに初めてお邪魔したのも、十六の歳。
あの折りはほんの赤子で在られたものが、まこと大きくなられましたこと」
一瞬、宴の座が静まった。
月央は知らず、救いを求めるように沙我弥の顔を見たけれど、
こんな時沙我弥は決まって、無表情にも似た険しい表情でじっと宙を見据えているだけなのだった。
否―――――
常より険しいその表情に、月央は一瞬息をすることを忘れる。
父がやはり困ったように眉を寄せて、けれど何に困っているのか分かりかねたような表情で、千草姫に話し掛けた。
「姫君は、御年はいかほどになられました」
「…………私は、十七。先日十七になりましたゆえ、おそらくこちらに伺うのも、これが最後と存じます」
「―――――千草姫!?」
驚きの余り月央は声を上げたが、父はただ一言「そうですか」と呟いて押し黙った。
十六夜姫はそっと、月央から顔を背け、沙我弥に視線を走らせる。
それでもなお沈黙を守る青年に、耐え切れなくなったように苦しげに表情を歪めた。
月央だけが、解らない。
解らないのにただ状況だけが、それを許さないように流れていく。
「姉上?」
答えを求めて縋った姉は、歪んだ表情のままで弟を一瞥し、後で、と言い添えてまた沈黙した。
父も、沙我弥も。
ただ一人千草姫が、いつものように視線を伏せたまま、静かに座り続けていた。
十七の歳になれば婚儀を上げることになっていたのだと、聞いたのはその夜のうち。
千草姫の住まう月の世の習いによって、良家の娘は生まれた時から婚約者を定められ、
娘が十七を数えたその年の内に婚儀を上げる。
それが古くから続くしきたりであり、
その月の世を支配する貴姫である千草姫はなおさら、それに違えることは許されない。
沙我弥が千草姫を連れてこの家を訪れた時から、それは解っていたことだった。
ただ月央はさすがに生まれたばかりでそれを知らなかったし、
長じてからもなお命の行く末すら解らぬ子供にそんな先のことまで告げてもせんのないこと。
だから父は口をつぐみ、姉もまた沈黙を守った。
あるいはまた、現れた時から姿違えぬ千草姫に、それが遠い未来のことのような錯覚を覚えていたのかもしれないと、
姉はぼんやり、宴の疲れから寝床で体を休める月央の枕元で笑った。
あんなにはかなく笑う姉を見たのは、月央の知る限り初めてだった。
それに首をかしげてそれから、千草姫の訪れがないということは沙我弥も訪れなくなることなのだと気づいた。
そして二人でただぼんやりと、かたぶく月を眺め続けた。
◆
千草姫の態度はけれど、常と変わらず優しく慈しみに満ちたものだった。
それ以外の、たとえば泣いたり悲しんだり怒ったりする千草姫を、月央は思い出せる限り見たことはなかった。
姉に聞いても同じ事で、それはこんな時に至ってすらも変わらないのかと思うと、ひどく寂しい気持ちになったものだ。
千草姫はただ、はかなく笑う。
笑って、月央様、と名前を呼ぶ。
そしてまたいつもの様に、体調を崩して寝込む月央の側に座って、
葉ざやや鳥の鳴く声に耳を傾け、
どこか遠いところを見ている。
婚約者とはどんな男性なのですかと、身を切られる想いで聞いてみた。
生まれた時から姉と慕い、やがてはただ一人の姫と想うようになった千草姫を、
生まれながらに手にすることが約束されているという、見知らぬ男が憎かった。
それがどんな男なのか、せめて知りたいと思ったのはすでに、千草姫をこの手にすることを諦めていたからなのか。
むしろ自分が、千草姫を手に入れられると思っていたことに気が付いて、月央は笑い出しそうになった。
何と欲深なのだろう。
最初から手に出来るはずもなかった、だってこの人は空に輝く月の貴姫なのだから。
人間ですらないのだから。
月央たちとは時の流れからして全く異なる、ただ偶然あいまみえただけの存在でしかないのだから。
何と身の程知らずなと、自嘲する月央に気づいていたのか、千草姫はゆらりと首をかしげた。
「従兄、なのだそうです。私より二つ年長の方」
考え考え、ようやくそれだけ紡いだ千草姫に、月央は不思議な感覚を覚えた。
じきに婚儀を迎えるという、しかも従兄であるという男のことを、
ゆっくり時間をかけて考えねば思い出せないというその事実。
唯人である月央たちの婚儀ですら、貴人同士のそれは顔すら知らない相手であることが主だというから、
それは決して不自然なことではない。
けれども着物の柄を聞かれたよりもなお意識を傾けている様子のない千草姫に、なんだか奇妙な違和感があった。
千草姫は、ぼんやりとして感情に乏しい姫では有るが、
物覚えの悪い姫ではないし、自身に関わる人間にそうと知って無関心であるような姫でもない。
けれども千草姫は見た限り、本当にその《婚約者》に何の興味も抱いていない様だった。
しばらく迷って、涼やかな夏の風に誘われるようにようやくそう口にした月央に、こくり、と千草姫は首をかしげた。
「〈仙鏡の姫〉である私が、かの国に在ることが肝要なのです」
他のことはすべて〈些細なこと〉でしかないのだ。
それがどういった立場になるのか知らないけれど、
ただその立場にある千草姫が誰かと婚儀を上げ、月の国を治めることだけが重要なのであって、
その他のことはひどくどうでも良いことなのだ、と。
本心で思っているのかそれ以外の答えを知らないのか、千草姫はそう微笑んだ。
その微笑みが常のごとくはかないのが、その時に限ってずいぶんと印象的だった。
「千草姫―――――?」
気づかずに、居れるはずがなかった。
その微笑みのはかなさの意味に気づかずに過ごせるほど、月央もまた愚かな人間ではなかった。
無意識に差し伸べた手が、わずかに千草姫の白い手に触れる。
その感触に我にかえって、そのまま恐れるように慌てて引っ込めた月央の手を、
千草姫が小さな両手で包んで、笑った。
いつしか自分の手が、この人の手よりもはるかに大きくなっていたことを、知った。
千草姫の視線が、いつしか自分よりもずっと下に在ったことに気が付いた。
かつて姉と呼んだこの人の態度が、月央の幼い頃より一貫して変わらなかった、その理由は……………?
ドクンと一つ、胸の音が大きく響く。
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どんな夢を見て
どんな願いを感じて
どんな世界を創ったならば
君は僕のそばに居てくれたのだろう
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