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カルマの坂


6

 少女はこれからおそらく、あの屋敷に仕える召使たちの手によって湯を使われ、泥と埃にまみれた褐色の肌や美しい白銀の髪を余すことなく洗い上げられるだろう。そうして柔らかな布でその水滴を拭き取られ、もしかしたら香油を肌に摺りこまれるかもしれない。乾かした髪には細工物の髪飾りを飾られるだろう。身にまとわされる服はおそらく想像もつかないほど柔らかな手触りの、それだけで一財産を築けるような高価な服に違いない。
  すべては主人の退屈を紛らわせるため。そして歪んだ欲望をぶつけるための生き人形として、少女は美しく飾られ、少女が少女であるという誇りすら踏みにじられて、美しく着飾られた装飾を次の瞬間には剥ぎ取られる。
  その瞬間、あのトパーズの瞳は何を映すだろうか?空を見上げて透明だった表情は、どんな歪みを見せるだろうか。戦乱によって奴隷に落ちた我が身を嘆き、そうしてあの時呟いたように、神様、と救いを求めるのだろうか―――――
  そう思った瞬間、少年は皮肉に口元を歪めた。咳き込みすぎて零れた唾液を無造作に拭いながら、睨み付けるように視線を上げる―――――少女の運命を一方的に定めた奴隷市場と、その無効に荘厳とそびえ立つ教会の、いやみなほど真っ白な壁。
  そこに神が居ると、いったいどれほどの人が信じているだろう。いったいこの町に住むどれほど人間が、神の存在を信じ、救いを求めるというのだろう。

「神様、なんて居ない」

 それは真実だ。泣きたくなるほどに。
  神様なんて存在しない。教会の連中が語るような慈愛の存在など、この世に居るはずがない。
  だって、もし本当に存在するのならなぜ、少女はああして奴隷に身を落とし、来たる忌まわしく汚らわしい運命を受け入れなければならないというのだ。もし本当に神様なんて存在があるのならなぜ、少年は毎日お腹を空かせ、生き延びるために盗みを重ねなければならないのだ。なぜ疫病は正しく貧乏人だけを死に導くのだ。なぜ富は金持ちの下にしか集まらないのだ。
  神様なんて存在しない。少なくとも教会の語るような、すべてを平等に愛する神などこの世には存在しない。存在するのは不平等に偏った世界を庇護する忌まわしい何かだ。ただ、それだけ。
  世界は、この街はあまりにも弱者に厳しく、だれもに公平。金がある者だけが救いを与えられ、貧乏人は路地裏でのたれ死ぬしかない。それが嫌なら悪事に手を染めるしかない―――――それが悪いことだとわかっていても、死にたくなければそうするしかない。
  それが、ただそれだけが教会の口にする"神様"の定めた世界だ。この街に歴然と存在するルールだ。
  トパーズの瞳がまた、脳裏をちらついた。やわらかく波を打つ銀の髪はきっと、丁寧に梳られる。その髪に触れることが許されるのは、下卑た欲望で退屈を紛らわす醜いあの屋敷の主人だ。きっと本当の意味で少女の価値なんてわかるはずもないのに、ただ退屈だという理由だけで少女は醜い欲望に引き裂かれ、汚される。

「いないんだ」

 どんなにその名を呼んだって、神、なんて誰も救わない。神は貧乏人など省みない。その溢れんばかりの慈愛を注ぐのは、醜く太った体をきらびやかな衣装でこっけいに包んだ金持ちだけ。
  ガリッ、と石畳に爪を立て、少年は憎悪のこもった視線で教会を睨み付けた―――――その憎しみで人が殺せるならば、幾らだってそうしてくれよう。けれども少年にはそんな力はない。ただ憎悪をたぎらせ、睨み上げるだけだ。

 ふ、と―――――視線がその界隈へと引き付けられたのは、必然だったのかもしれない。
  そこは技術者連中が集まって位置を開いている界隈で、少年のように日々を生きることに精一杯の人間はめったに近寄りもしない場所だった。そんなことに興味を持っている時間があれば、どうやって生き延びればいいのかを考えなければならなかった。だからそれはきっとただの偶然で、それ以上に何かの必然だった。
  少年は広間の石畳にしゃがみ込んで爪を立てたまま、獣のような視線で、その界隈を見つめる。周りを行きかう人々の隙間から見える、その界隈―――――少年自身、普段ならまったく気にも留めないその場所。
  けれどもその時、少年はその場所に視線を釘付けにされ、まるで酩酊したようにしびれた頭で取り留めのつかない何かを考えながら、ギョロリとやせて大きな瞳を見開いていた―――――その先に見えた、武器屋の看板に。
  もちろん少年は字が読めない。少年だけじゃない、この街に暮らす者の一体どれほどが、文字を読むことなど出来ただろう?中には一生文字の存在など知らぬまま死んでゆくものもいる。そんなものを知らなくても、生きていくのには十分だ。
  文字を知っていても腹は満たされない。何より文字を覚えるには、少年などには想像もつかない途方もない金を積み上げなければいけない、と以前誰かが言っていた。文字が読めれば金がもらえるというが、そんなものをあてにする前に少年は飢えて死んでしまう。
  けれどもそれが武器屋だと判ったのは、看板に書かれた剣の絵のおかげだった。否、それが武器屋だという認識すら、その時の少年は持ってはいなかった。ただ目に入っていた剣の絵と―――――そこから導かれる凶悪で、あまりにも甘美な誘惑。
  剣、というものを少年は知っていた。正確には刃というものを、少年は我が身を持って知っていた。少年が盗みを働く店の中には店主が刃を持って追いかけてくる所もあり、その刃が当たれば恐ろしく痛いのだ、ということを少年はちゃんと覚えていた。おまけにどくどくと赤いものがあふれ出す。その真紅も、少年はちゃんと、恐怖とともに覚えていた。
  少年は正確に言えば、剣、というもの自体は知らなかった。けれどもひどく大きな刃であることは理解した。そしてあれほど大きな刃があたれば、一体どれほど痛く、恐ろしいのだろう、ということを想った。
  きっととても痛いはずだ。前に店主に当てられたあの小さな刃だって、少年はひどく痛く恐ろしい思いをしたのだ。だからあの小さな刃よりももっともっと大きなあの刃は、もっともっと痛くて恐ろしいはずだ。
  ドクン、と―――――大きく、音が響く。息がうまく出来ず、少年は思わず大きく深呼吸した。視線があの刃の絵から離れない。看板ということは、あそこはあの、大きな刃を売る店なのだ―――――
  剣、という認識は少年にはなかった。そんなことを教えられていなかったし、そんなことを知る必要も存在しなかった。それが一体何のために使われるものなのかさえ、少年にはどうでも良いことだった。
  ただ、ドクン、と大きな音が響く。頭の芯がしびれたように、たった一つのことしか考えられない。ちらり、と無意識のうちに見上げた空は、あと少しで茜色。


to be continued......


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