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カルマの坂


8

 少年は一気に教会の広場に駆け込むと、そのまま東の坂の手前、奴隷市場の舞台の影でようやく立ち止まり、肩で大きく息をした。全身がふいごになったように、吸っても吸っても息が足りない。だらだらと汗が流れて地面に落ちた。剣を引きずり続けた肩の感覚が、まるでない。
  カシャンッ!
  剣を一旦放り出し、ドサッと地面に倒れ伏して、少年はひたすら激しい息を繰り返す。これほど疲れた事は他ではちょっと思いつかなかった―――――ずっと昔、まだ体も小さかった頃はいつも、パン一つを盗んでくるのに命懸けだったけれど。
  ゼイ、ゼイ、ゼイ………
  何度も苦しげに息を繰り返しながら、少年は脇に放り出した、たった今盗んできたばかりの剣を見る―――――いつかパン屋の店主に追われた時に傷つけられた小さな刃なんかより、もっとずっと大きな刃。すっかり日が沈んだ薄暗闇の中で、かすかな光を反射して、磨き抜かれた刃がきらりと白く光る。
  息苦しさで何も考えられないまま、ぼんやりと手を伸ばした。それすら酷く重く、まるで全身が鈍い鉄の塊になってしまったかのような錯覚を覚える。たった数センチ、それがあまりにも遠く、ソコにいたるまでの数秒が永遠にも感じられた。
  カツン、と。
  刃に、指先が触れる。酷く冷たい印象の、鋼の塊。磨き抜かれた白い刃。

「……ッ……ハッ………」

 ノロノロと体を起こした。たったそれだけの動作でも眩暈がするほどの疲労を感じながら、半ばは這いずるように、磨き抜かれた刃の先に、そっと指を這わせる。
  ―――――プツッ
  あるかなしかの音とともに、指先からポタリと赤い雫が滴り落ちた。その、瞬間走った痛みにわずかだけ眉を寄せながら、それ以上の興奮に全身を支配され、少年は激しく高ぶる鼓動を感じる。

「ハハッ………ハハ………ッ」

 力だ。純粋な、圧倒的な力がここにある。少年がいまだ持ったことのない、また持ちえたことのない力―――――かつて少年自身をも恐怖に陥れた、強い力。それが今、目の前に、ある。
  クッ、と喉の奥から笑いがこみ上げてくるのを止められなかった。自分がなぜ笑っているのか、わからないけれども少年はなぜだか、笑わずにはいられなかった。
  じっと、かすかな明かりの中で、ジクジクと痛みを訴える指先を見つめる。ほんの少し、滑らせただけでしかなかったのに、指先が生暖かい液体にまみれ、冷えてゆくのが手に取るように判った。初めて店主に刃を向けられた時はただただ恐ろしいばかりだったのに、それが今はこんなにもうれしい。

(これなら)

 トパーズの瞳を思った。透明な涙を湛えて世界を呪っていた、憎しみの強い光を放っていた青い瞳。埃にまみれた銀の髪。大地のように褐色の肌。―――――まるで大地の申し子のように、美しかったあの少女。
  もうすっかり日が沈んでしまった、今頃は少女はすっかり磨き上げられ、醜い金持ちの慰み者になる瞬間を恐怖におののき、身を縮こまらせて待っているのだろうか。それともあのトパーズの瞳ですべてをあきらめてしまった人のように空を見つめ、あの時のように呟いているのだろうか―――――「神様」と、与えられるはずのない救いを求めて。
  それを思った瞬間、再び少年の身の内を激しい怒りが吹き荒れた。そう、これは怒りだ。今までに幾度か感じたことのある、ギリギリと歯軋りをしたくなるほど激しく、頭が真っ白になって何も考えられなくなって、胸を掻き毟りたいほどのもどかしさすら覚える、激しくも純粋な憤りだ。
  神様、なんて居ない。そんなものはどこにも居ない。ここに居るのは醜い金持ちだけを庇護する、醜悪な存在でしかない。少年や少女のようにちっぽけで取るに足らない人間は、そうした存在に踏みにじられるしかない。

『どっちだって同じさ。生きてるよりはな』

 いつだったか、呟いていた男の言葉を、今の少年は良く理解出来る。どっちだって同じだ。生きていればただ耐えがたい苦しみに日々を喘ぎ、絶望を重ね続けるしかない。誰からも省みられないまま、軽蔑の眼差しすら注がれ、存在をも否定されて、それでもみっともなく必死に生き足掻くしかない。
  地獄に落ちようと、死ねばきっとヒトは平等だ。死んでいると言うただ一点において。死ねば、これ以上生きたいと苦しむことはない。生き続けるために誰からも否定されながら足掻き続ける必要は、ない。
  耐え難い笑いがこみ上げてくるのは、なぜだったのか。

「ははっ、はははっ………くっ、はははは…………ッ」

 判らない。けれども少年は、なぜだか愉快な気分だった。ひどく愉快で、笑わずにいられなくて、それで居て頭の片隅で少女のトパーズの瞳を意識した。あの、透明な青。
  ガリッ、と石畳に爪を立て、今までの疲労を忘れたように立ち上がった。ガチャ、と握った剣の重さを忘れた。引きずるように必死に逃げてきた事実を忘れ、はたから見ればずいぶんと軽々と、けれども両手でしっかり剣の柄を握り締め、ゆっくりと振り仰ぐ。
  その先にある、青い月光に照らされた沈黙の坂。


to be continued......


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