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旋律 ノ ウタ




 冬月美愛(ふゆつき・みあい)。
 それが彼女の名前であり、彼女の存在をあらわす音だった。美愛、という音を彼女はとても気に入っていた。その音が彼女を表すという事実を、彼女はとても愛していた。
 彼女―――――美愛にとっての世界とは、幾つもの優美な旋律に彩られた、繊細で緻密な存在だ。美愛はその幾つもの旋律が重なって織り上げられる音の中に、自分自身の名前や存在すらも謳い上げられるのを聞くのがとても好きだった。
 美愛自身だけじゃない、美愛の両親や、庭に立つ桜の木や、街を行く人々、そのすべては旋律に還元され、世界という交響曲の中に織り込まれて、幾重にも響き合いながらたった一つのメロディーとして世界に満ちる。世界は、旋律に満ちている。それが美愛にとっての真実。
 世界に満ちる音を聞くこと。
 世界を形作る音が在ること。
 それは不協和音も確かにあって、思わず両手で耳を塞いでぎゅっと目をつぶりたくなるような音も在るけれども、例えば雨が降り出す瞬間の澄んだ泣き出しそうな旋律を聴くと、美愛の心はトクン、と大きく音を奏でる。その美しさに思わず涙を零しそうになる。
 世界は旋律に満ちている。世界のすべては旋律に還元され、美愛はそうして奏でられる音律に世界の在り様を知る。ずっとずっと幼い頃、きっと美愛にとっての子守唄は世界の奏でる旋律だった。

「……………お母さん、雨が降るよ」
「あら、そぅお。ありがとう、美愛」

 今日びの一戸建てにしては広々とした感のある庭に立ち尽くし、今にも泣き出しそうな空を見上げて耳を澄ませる美愛の言葉に、母がおっとりと言葉を紡ぐ。その声色は柔らかなクラリネットのような音質を持つ一筋の旋律として変換され、世界に満ちる旋律の中に溶け込んで、美愛の鼓膜を優しく震わせる。
 そうして母がカタカタと突っ掛けを鳴らして洗濯を取り込みだすのを見ながら、美愛はそっと足音を忍ばせて縁側に戻り、サッシのところに腰をかけると右足を立てて両手で抱えた。顎を立てた膝の上に置き、そっと目蓋を閉じて耳を澄ませる。

「……………ッ」

 たちまち、世界は視覚よりも鮮やかに美愛のまなうらに再現され、母という存在の紡ぐ旋律が世界に満ちる旋律に寄り添うのを感じて、美愛は感動のため息をついた。世界は旋律に満ちている。そして世界は変容と共に、その旋律を美しく変化させる。
 カタカタカタ、と鳴る突っ掛けの音すら、美愛の耳には至上の旋律を彩る一つのメロディーとして聞こえた。ヒョゥ、と雨の訪れを知らせる風の音が鈴のように震えた。涙を零す寸前の空の、金管を掻き鳴らしたような透明な音。庭の桜は、もう随分と花をつけぬまま、まどろむような静かな音を奏でている。家の中から聞こえてくる、おばあちゃんから貰った古い時計の奏でるカッチカッチと几帳面な優しい声。
 世界は旋律に満ちている。そして生まれながらに美愛は、その旋律を聴くための耳を持っている。
 美愛の生まれ持ったこの能力、存在そのものを音楽に還元して聴くことの出来る能力は、もちろん珍しいものだと思う。それを美愛は自覚しているし、美愛の家族も、回りの人間もそうであることを知っている。
 けれどもこの街、高ノ宮市で何らかの不可視力を持って生まれてくる子供自体は、ちっとも珍しくはない。高ノ宮市とはそういう街であり、この街に息苦しいほどに満ちる美しい旋律はその事実を奏でていた。日本唯一の〈特別行政自治区〉高ノ宮市、不思議と現実、常識と非常識が渾然と、しかし矛盾なく存在する街。
 冬月美愛が生まれたこの街に在って、美愛という存在は奇異であっても異端じゃない。珍しいものではあるけれども、決してありえない存在じゃない。
 それが幸いかどうかは、美愛には判らないけれど。生まれた時から世界に満ちる旋律を聴いて育った美愛にとって、それが特別なことなのだ、と識ってはいても理解出来るものではなかったけれど。
 晴れた日の朗らかな、心浮き立つ旋律。
 曇った日のどこか心もとない、不安を掻き立てる旋律。
 風の日の泣き声。
 人のざわめく唄。
 それらの幾つもの旋律で完成された世界を壊すのが怖くて、美愛はいつも口をつぐみ、そっと瞳を閉じて耳を澄ませていた。
 それらの旋律に包まれて眠るのが心地よくて、美愛はいつもまどろんでいた。



 冬月美愛は、本来なら中学2年生に当たる。現在14歳になる美愛は多分、その学年になるはずだ。
 けれども美愛は今、学校に行ってはいなかった。かといってどこかに出かけるわけでもなく、ただ日がな一日縁側で足を抱えて座ったり、庭の芝生の上でごろりと転がって空を見上げたり、自分の部屋の窓から咲かない桜を見下ろしたり、そうして耳を澄ませて世界の音を聞き、うつらうつらとまどろんで、そうして一日を終えていく。
 そんな美愛に、母も父も学校に行けとはただの一度も言わなかった。学校に行かなくなった時すら、なぜ行きたくないのかも聞かなかった。ある日、もう美愛自身も覚えていないような遠い日に、前触れもなく当然のように学校に行く代わりに縁側に座っていた美愛のことを、両親は当然のことと受け止めたようだった。
 美愛は、だから一日空を見上げ、世界から降ってくる旋律にたゆたい、まどろみ、世界を識る。この世界に満ちる旋律を知ることで、美愛は世界の根幹を識る。
 美愛の能力は特別だから。
 世界を旋律として捉える子供は特別だから。
 美愛はぼんやりと、時には奏でられる旋律の美しさに恍惚とすらして、世界が謳い上げる聖譚曲(オラトリオ)を聴き続ける。その旋律に抱かれて美愛は、世界の優しさを識る。
 そうして今日も芝生に寝転がり、草木や空や雲や風や水や光や虫やその他の色々な生き物が奏で、重なり、響きあう不朽の音律に身を委ねながら、美愛はふいに誰かが呼びかけるような音を聴いて瞳を開いた。ぼんやりと、どこか夢見るような視線をさ迷わせ、隣の家からゆうらりと見下ろしてくる視線を知る。
 ふわりと、微笑んだのはきっと同時だ。

「お兄ちゃん」
「美愛、また眠ってるの」

 クス、と柔らかく笑んで美愛を見下ろしてきたのは、隣に棲む一つ年上の少年だった。一見して明らかに線の細い外見に、不吉なほど似合う白い洗いざらしのパジャマが眩しい。
 少年―――――時任風巳(ときとう・かざみ)はパジャマの上から薄いカーディガンを羽織り、窓のサッシに腰をかけて庭を見下ろしながら、恐ろしく澄んだ黒曜石の瞳で優しく美愛を見下ろした。

「美愛。まだ、寒いよ」

 まだ三月になったばかりだもの、と。
 そう言葉を紡ぐお兄ちゃんの姿こそ寒そうだ、と思いながら美愛は、うっとりと瞳を閉じて風巳の唇から零れる音律の美しさに浸った。風巳の紡ぐ音は、ごく薄いガラスを弾いた音色にも聞こえた。とても透明で、繊細で、今にも壊れそうな音。何かの瞬間バランスが崩れれば終わってしまうような、危うさを秘めた美しい音色。
 風巳は、美愛とは一つ違いだけれど、幼馴染だった。もっともっと幼い頃、風巳が美愛より一足早く小学校に行ってしまうまでは、良く一緒に遊んでは世界の旋律を共に解き明かし、世界の美しさに二人で涙を零した。
 彼には美愛の聴く旋律は聞こえなかったけれど、代りに優しく世界を包む双眸が有ったから。幼い美愛の語る旋律の美しさに共感し、それを想像して、その美しさに風巳はとても綺麗な涙を流した。その涙はまるで水晶のような音律に返還され、あまりの美しさに美愛もまた涙した。
 世界は旋律に満ちている。美愛はそれを知り、風巳はそれを識る。
 きっと、だから風巳の奏で、紡ぐ旋律はあまりにも美しいのだ。あまりにも美しく、優しすぎて、美愛はいつもその旋律を聴くと胸が一杯になる。
 けれども、と美愛はそっと瞳を開き、すっかり線の細くなった少年の、柔らかな笑顔をじっと見つめた。彼から聞こえてくる旋律は、日に日に儚さを深めている。今にも壊れそうに危うく、美愛はその危うさに憂えるのだ―――――風巳の旋律の常軌を逸した美しさが、その儚さと危うさに基づくものだと識っているから。
 お兄ちゃん、とそっと呼びかけ、はぐらかせた視線の向こうで雲が眩しく、白い。

「カラダに、良くないよ。寒いの」
「……………最近は、調子が良いんだよ」
「ウソツキ」

 呟くと、風巳は困ったように儚く微笑う。儚く微笑って、旋律を奏でる。その音が美愛に届くことを、きっと少年は知っている。
 リィン、とガラスを弾いたような、今にも壊れそうな音色に美愛は、ギュゥッ、と一瞬、きつく瞳を閉じた。あまりの儚い美しさに、美愛の胸は張り裂けそうだった。
 彼は、余命幾ばくも無い。何という名前の病だったのか、その病魔が宿った瞬間の不吉な音律を美愛は今でも覚えている。聴いた瞬間恐怖に戦くようなその旋律は、どんなに聴かないようにしていても確実に風巳という存在を侵食し、世界に満ちる旋律を変貌させてゆく。
 最近は、めっきり外にも出てこない。ただああして窓を開け、サッシに座って、今にも消えそうに儚い笑みで街を見下ろしている。そうして彼は、待っているのだ。病魔という名の不吉な旋律が彼という存在を取り込み、新たな歓喜に満ちた旋律を奏で始めるのを彼は、ただじっと待っているのだ。
 何という名前の病だったのか、現時点の医学で彼を助ける術は何もないのだ、と母が言っていたのを思い出す。風巳はああして、じっと死を見つめているしかない。

(皮肉、だわ)

 だからあんなにも、風巳という存在の奏でる旋律は儚く、美愛の心を締め付ける。世界が歓喜し、彼の旋律を取り込み、そうして新たに生まれた旋律は世界に満ちて歓喜に震える。その旋律のあまりの美しさに、また美愛は胸を締め付けられる。
 時任風巳の―――――幼い頃から兄と呼んだ彼の命は、きっと夏まで保たない。医者が口を揃えてそう言っているのを美愛は知らなかったが、風巳自身の命の旋律を聴く美愛にはそれが誰よりも良く判った。
 彼はきっと、夏まではいない。今年の夏を美愛は初めて、彼が居ないままで過ごさなければならない。彼の音を失ったまま、世界が旋律に満ち満ちてゆくのを聴かねばならない。
 美愛は、風巳の微笑みから逃れるように瞳を閉じ、そっと世界に耳を澄ませた。その中に確かに一筋、儚くも美しい旋律が通っているのを、知らず知らずのうちに美愛は聴く。聴きたくないのに聴いてしまう。聴いてしまえば、その旋律が途切れる瞬間を想像しなければならないのに。
 世界は旋律に満ちている。残酷なまでにゆったりと、世界は世界の旋律を奏で続ける。そうしてその中のたった一筋の旋律が途切れるのを恐れながら、美愛は静かにまどろみ続ける。



 けれども、それはいつの頃からだっただろう?
 世界に満ちる旋律が春の訪れを感じて歓喜の音色を奏で始め、庭の草花がそれぞれに新たな生の息吹に涼やかで可憐な音色を響かせ始めた頃、ただただ儚く消えていくばかりだった風巳の旋律に重なるように、寄り添うように響くもう一つの綺麗な旋律があることを知った。それは確かめるように寄り添いながら、焦がれるように付き慕い、守るように包み込むような、満たされたような一瞬の煌きのような旋律だった。二つの旋律が重なって奏でられる聖譚曲が余りに声高く歓喜を謳うのに、美愛は気付いた瞬間感動に打ち震え、はらはらと涙を流さずには居られなかった。
 いったいなぜこれほどの美しいアリアに気付かずに居れたのだろう?
 いったいなぜこれほど高らかに謳う聖譚曲に気付かぬまま、日々を過ごすことが出来たのだろう?
 その二つの旋律が奏でる音曲はあまりにも鮮やかに、あまりにも儚く、あまりにも世界を圧倒した。世界に満ちる旋律の中で、ただその旋律だけが際立って美愛の耳に響き、凶悪なまでに美愛の心を掴み取り、離さなかった。
 初めてその旋律に気付いた瞬間、美愛は胸を締め付けられ息苦しさすら感じるほどの感動に支配され、居ても立ってもいられなくなって縁側から裸足で飛び出し、芝生の上にごろりと転がって高く澄んだ空から落ちてくる旋律のカケラに声もなく泣いた。これほど美しい旋律を、美愛の声で汚すなんて考えも付かなかった。
 世界は旋律に満ちている。あまりにも美しく、世界は完成し、変容していく。たくさんの美しい音のカケラを撒き散らし、世界はただ世界として旋律を奏で続ける。

「美愛」

 隣の窓からいつものように、時任風巳が柔らかく笑んで見下ろしてきた時も美愛は、滂沱の涙を拭うことも忘れてただただ澄んだ空を見上げ続けていた。全身で世界に満ちる旋律を受け止め、その圧倒的な美しさと、美愛という存在がそこに織り込まれる幸せを感じ、そこから失われようとしている風巳の旋律の繊細な美しさを惜しんでいた。
 多分、それだけで風巳には十分だったのだ。彼は美愛が生まれた時から美愛の隣に棲み、美愛のそばにいて、美愛の言葉を聞き、美愛の聴く旋律に想いを馳せていたのだから。
 誰よりも美愛の聴く世界を理解している風巳は、だから声も泣く涙を流し続ける美愛を優しく見下ろして、どうだった?と儚い音を紡いだ。

「美愛。……………どんな、旋律だった?」

 美愛はそっと首を振った。この旋律を言葉にすることなど、到底美愛には出来そうにない。どんな言葉を尽くしても、この地上に存在するどんな楽器をもってしても、この旋律を再現することは不可能だ。あまりにも不安定であまりにも絶対的な美しさに、人はあまりにも無力すぎる。
 その拍子にぽろぽろと再び零れ落ちる涙にそっと目を伏せて、風巳は肩からかけた薄手のカーディガンの胸元をかき合わせた。彼はこの一週間で、ますます線が細く、存在が稀薄になった。
 あぁ、と美愛は瞳を閉じて、旋律に耳を澄ませる。もうすぐだ。もうすぐ、彼という旋律が世界から失われる。ガラスの砕け散る一瞬前の儚さのような、彼の魂が歌う旋律が何よりそれを物語っている。
 美愛、と彼にしては珍しく再び言葉を促す声に、美愛は再び瞳を開き、涙に歪んだ視界の向こうに笑む風巳の顔を見た。小さく小さく、世界の旋律を壊さぬように細心の注意を払って、美愛はそっと音を紡ぐ―――――彼女は、彼女の声が世界に満ち満ちる旋律を砕くことを、いつの頃からか怖れていた。

「とても力強くて………お兄ちゃんを、どこかに連れて行きたい、音」

 でも連れて行けないことを、美愛は一番よく知っている。彼の魂はもういくらも保たない。夏まで―――――否、春が終わるまですら、そばにいてくれるかどうかも判らない。
 それが哀しくて美愛は再び、きつくきつく瞳を閉じようとした。風巳は世界でたった一人、本当に美愛の世界を理解してくれる大切な【兄】だった。幼い頃から世界に満ちる旋律を解き明かし、風巳はその旋律を想って遠い瞳で微笑んで、そっと美愛の魂を包み込む。美愛の世界はそうして完結していて、そうしていつまでも完結しているのだと思っていたのだ。
 けれども美愛が瞳を閉ざし切る寸前、目に飛び込んできた風巳の柔らかな笑みに美愛は、視線を奪われたきり閉ざすことを忘れた。柔らかな、甘やかな、……………とても嬉しそうな笑み。美愛が初めて見る、美愛の知らない笑顔。
 あぁ、と呟いた。見たこともない笑みを浮かべる少年から流れてくる旋律の、なんと甘やかで美しいことか。今は遠く微かにしか聞こえないあの力強い旋律を想って、風巳の魂は声を高らかに歓喜の唄を謳っている。それは唄でありながら音律であり、旋律であり、この世に満ちるすべての繊細な音楽すべてだ。
 あぁ、とため息を漏らした。美しい旋律―――――それを受けて世界が歓喜の咆哮を上げる。世界が高らかに喜びの唄を奏でる。草も、木も、空も、風も、雲も、光も、世界に満ち満ちるすべての存在が奏でる旋律が絡み合い、たった一つの至上のアリアを謳い上げる。

(その人なのね、お兄ちゃん)

 甘やかな旋律にそれを知り、美愛は細く細く息を漏らした。美愛は、この世界に存在するすべての存在を旋律として感じることの出来る彼女は、風巳がずっとずっと【誰か】を待っていたことを知っていた。彼の魂が奏でる旋律は、いつも此処にいながらどこかにさ迷い出るような旋律だった。
 いつだったか、そう言った美愛に風巳はふわりと微笑って、そうだね、とやっぱり甘やかな響きで言葉を紡いだ。否定するでもなく、肯定するでもなく、ただその一言だけで風巳は美愛に微笑んだ。だから美愛は知った。風巳が【誰か】を待っていることを。
 風巳の、甘やかな笑み。柔らかな旋律。遠く低く流れてくる旋律と絡み合い、新たな旋律を奏で始めるあの、幼い頃から良く知った初めて聞くような美しい音色。
 そこに織り込まれている感情が、穏やかで激しい歓喜の色なのだと、美愛は知ってまた涙を流した。新たに現れたあの力強い旋律の持ち主が、風巳が幼い頃からずっと待っていた【誰か】なのだと、悟ってしまった美愛が流すその涙が哀しみなのか喜びなのか、美愛自身にも判らない。
 ―――――その旋律が、この辺りでは見かけない少年のものだと知ったのはすぐのことだった。次の日だったか、もっと日が空いてだったかは覚えていないけれど、美愛がいつものように部屋の窓に頬杖を付いて空から降ってくる旋律に浸っていた時、その少年はまさに一陣の風のような激しさと変化の予感を漂わせ、けれども表面上はとても静かに訪れ、風巳を見た。
 がばっ、と起き上がってその少年を見下ろした、美愛にはきっと気付いていなかった。その時だけじゃない、彼はいつだって風巳の方しか見ていなくて、じっと見下ろしている美愛のことは見てなんていなかった。
 変化を予感させるような、激しく力強い旋律。それなのに世界に満ちる旋律と不思議なほど調和し、そこに生まれる音色はただただ荘厳に辺りを支配し、天空へと舞い上がる。そんな錯覚を覚えるほど、それは不思議な少年だった。世界の旋律を聞く美愛にとって、その変化はとても不吉なもののようにも思え、また新たな風を予感させる行進曲のようにも思えた。
 そして風巳もまた、彼が来ているときは美愛のことを見てはいなかった。何も言わなくても、不思議なほど美愛が風巳を見ている時は柔らかく笑んでこちらを見返してくる風巳が、ただ彼が訪れている時だけは美愛のことを一瞥もせず、彼の方だけを見つめていた。
 ただ静かに見つめ合う魂の旋律は重なり合い響き合い、いつしか確かなハーモニーを奏でて世界に満ちる音を調律してゆく。何か言葉を交わすわけでもないのに、日に日に彼らの旋律は確かな重なりを持ってたった一つの音楽を奏でだす。
 美愛はそんな時いつも、自室の窓枠にもたれてそっと瞳を閉じ、その旋律に聞き入った。あまりにも美しく、あまりにも哀しいその旋律に、美愛は我知らず涙を流しながら、何度も自問を繰り返した。

(どうして)

 どうして風巳が世界から失われようという今になって、彼は現れたのだろう。それとも彼が現れたから、風巳は世界から失われようとしているのか。あるいは最初から彼が現れるまでが、風巳が世界に存在することを許されていた時間だったのか。
 あまりにも美しい旋律、それは失われるからこその儚い美しさなのだと、誰が知らずとも美愛は知っていた。世界は旋律に満ちている。そして旋律はいつも生まれ、奏で、失われる。だからこそ世界に満ちる旋律はいつも、新たな響きを持って美愛を満たす。
 どうして、と美愛はそっと繰り返す。言葉もなく繰り返し、風巳と少年が言葉もなく見詰め合うたびに新たに生まれる旋律に耳を傾け、涙を流し、そうして少年が去っていくのを柔らかく笑んで見送る風巳の横顔を見つめながら、彼の視線がこちらへ向けられるのをそっと待つ。

「桜」

 じっと見つめている美愛に気付くと、少年に見せるのとは違う、けれども愛しい【妹】に向ける甘やかな笑みを浮かべて、風巳はそっと首を傾け、言葉を紡いだ。風巳も、周りに比べれば随分と言葉の少ない方だ。それは多分美愛が幼い頃、幾つも零れてくる大人達の無遠慮で無粋な言葉に、世界が奏でる旋律が壊されるのが嫌だと泣いたからだろう。
 風巳は美愛の持つ世界の旋律を聴く能力は持たなくても、美愛の言葉に共感し、世界の美しさを想像して涙を流すことの出来る、とても優しい少年だった。だからこそ彼は、彼の言葉が世界を損なうことを、美愛と同じように怖れていた。
 ポツリ、と紡いだ言葉の行方を探るように、風巳はゆらりと視線をさ迷わせた。美愛は風巳の透明な黒曜石の瞳が変わらず優しく笑んでるのを見て、うん、と吐息のような応えを返す。それが隣の家の窓枠に座って儚くこちらを見て微笑っている風巳に聞こえていることを、どうしてだか疑う気がしない。
 それから美愛は、風巳と同じように庭に立つ桜へと視線を泳がせた。幼い頃から一度も花を付ける事無く、ただ幼子をあやす子守り歌のような旋律を奏でている、いつから立っているのかも知らない桜の老木。いまだ深い、深い眠りについている―――――そしてきっと目覚めることのない、安らいだ旋律を奏で続ける桜のことを、美愛はとても愛していた。
 間違いなく美愛にとって、この桜の老木は彼女の子守唄でもあった。もっとも美愛の身近にあって、この家に生まれ、育ち、死んでゆく幾人もの人間を見守り、慈しみ続けてきた桜の奏でる音色は、美愛の一番奥のところまで染み込んで優しく、愛しい。
 それは風巳にとっても同じことだった。風巳はやっぱり生まれた時から美愛の家の庭に立つ桜の老木に親しみ、一度も花をつけることなくひっそりとそこに立ち続ける桜を美愛と同じく愛していた。幼い二人の遊び場が、だから桜の老木の根元だったのは必然だった。
 風巳は瞳を細めて桜の奏でる旋律に耳を傾ける美愛を見つめ、それからもう一度桜の老木に視線を戻した。すでに癖になってしまった、肩から羽織ったカーディガンの胸元をかき寄せる仕草に、ほんの少しだけ苦笑する。
 その声が奏でる旋律に、美愛はそっと視線を風巳に戻した。

「………お兄ちゃん?」
「うん」

 美愛の問いかけるような声色に、風巳はそっと微笑った。その微笑みがすべての未来を諦めたからこそ浮かべられる笑みだと、知っていたから美愛はそっと瞳を閉じる。そうすれば一際鮮やかに響く、微かで儚い風巳の音色。確実に終焉に向かっている繊細な旋律。

「今年は桜、咲くと良いね」
「……………」

 美愛は、答えないまま再び瞳を開き、そっと桜の老木に視線を注いだ。この桜が咲くことがないことを、風巳もちゃんと知っている。もう年老いて、枯れずに残っているのが不思議なほど古い木なのだ。それを知りながらあえてそう言った、風巳の心を想って美愛は胸が締め付けられる想いがした。
 桜は咲かない。咲くはずがない。
 けれどもその桜が咲くと良いねと、風巳は笑んで言ったのだ。硬質で薄いガラスを弾くような、今にも崩れ落ちそうに張詰めた煌めく音色で、風巳はそう言ったのだ。
 ああ、と美愛はため息を吐いた。そうでなければ美愛はきっと、泣くと思った。どんなにかまっすぐに、風巳が終わりを見つめているかを知ってしまったから。風巳の魂の奏でる旋律以上に、風巳の紡ぐ言葉の旋律がそれを示していたから。
 風巳は、優しい美愛の【兄】はその言葉に美愛が受けた衝撃も、きっと知っていたはずだ。それでもなお緩やかな終わりを見つめ続けるのが、彼の優しさなのかもしれない。必ずやってくる終わりを、あえて突きつけるでもなく、かといって遠ざけるわけでもなく、ただあるがままに見つめ続けるのが風巳なりの優しさなのかもしれない。
 それきり言葉を交わすでもなく風巳は柔らかな笑みを浮かべたまま、じゃあぼくはもう寝るよ、と窓辺から姿を消した。最近ではこの時間、風巳が待ち続けていた名前も知らない【誰か】がやって来る時間を除いて、風巳はほとんど姿を現さない。不思議なほど確実に【誰か】との無言の交流を重ね、それ以外の時間のすべてを風巳はベッドの上で過ごしている。
 もう風巳の時間は殆ど残ってない。風の音色に美愛はそれを知り、そっと瞳を伏せて風巳を想った。名前の通り、まるで風のようにつかみ所のない風巳のことを、美愛はとても愛していた。彼の優しさを愛し、彼の魂が奏でる優しい音色を愛していた。彼と共に世界に満ちる旋律が降ってくるのをただ受け止め、その美しさに想いを馳せ、そっとまどろむ日々が永遠に続くことを、信じていられたのはもう昔のことだった。
 風巳はもうすぐ居なくなる。美愛を残して、風巳の旋律はその名の通り風に帰ってゆく。
 ―――――ふいにリィンと鳴り響く、鈴の音色にも似た旋律に、美愛は弾かれたように視線を上げた。

「……なんで?」

 その旋律が示す事実、風や空や雲や光、世界に満ちる旋律のすべてが歓喜と困惑を持って謳い上げる、一際綺麗な繊細な響きに、美愛は呆然と呟いた。リィン、と旋律は美愛の初めて聴く響きを持って世界に満ち満ちてゆく。世界は新たに生まれた旋律を歓迎し、その果てに訪れる何かを知って困惑する。
 なんで、と美愛はもう一度呟き、身を乗り出した。窓枠を両手でぎゅっとつかみ、精一杯体を乗り出して、少しでもその旋律の側に行こうとした。
 庭に立つ、桜の老木。年老いすぎてもう、花をつけることなんで出来ないのだと知っていた。ただゆったりとした揺りかごの唄を奏で、まどろみながら世界を慈しみ、ただ終焉を待っていたはずの、あの桜。

「なんで!?」

 その桜から奏でられる新たな旋律に、美愛は我を忘れて叫び声を上げた。その叫び声に世界に満ちる旋律が掻き乱され、不協和音の輪が広がっていくのを聞きながら、それに耐えるようにぎゅっと眉を寄せた。
 リィン、と涼やかな音色が響く。それは風巳の奏でる旋律にとてもよく似ている。終わりを見つめる儚い美しさを秘めた、けれども風巳の旋律が奏でる諦めの音色ではなく、何かを決意した満足のような音色。
 なんでぇ、と泣きそうな声になって、それでも美愛は必死に桜の老木を見つめた。ポロポロと涙が零れ出し、美愛の頬を濡らしているのを知りながら、それを拭うことも思いつかなかった。

「だって、死んじゃうんだよ?」

 美愛にとって、世界は旋律に満ちている。世界のすべては旋律に還元され、旋律を聴くことで美愛は世界を識る。それはつまり、旋律を奏でるすべての存在は、美愛にとって等価であるということ。人もモノも空も風も何もかも、すべての旋律はただ、等しく美しい。だからこそ、世界に満ち満ちる旋律はいつも美しく、美愛の心を打ち震えさせる。
 美愛にとって、世界は等価だ。だからこそ。

(大丈夫)

 そんな思いを伝えてきた桜に、美愛はぐしゃりと顔を歪めた。桜が何を考えているのか、何を想っているのか、どうして桜の奏でる旋律がまどろみから変容したのか、美愛には判ってしまったから、顔を歪めたままますます涙を零し続けた。

「何が大丈夫なの………?」

 ちっとも大丈夫なんかじゃない。何も大丈夫なんかなじゃない。
 美愛にとって世界は等価だ。世界は旋律に満ちている。世界に満ちる旋律で世界を識る美愛にとって、すべての旋律は等しく美しく、だから世界に満ちるすべての存在は等しく美しい。等しく、愛しい。
 その世界から何かが欠けることを、美愛は何より恐れていた。失われる瞬間の旋律こそが最も美しいと、知りながら美愛はそれを恐れた。だってそれはもう二度と戻らないということだ。奏でられた旋律は美しく、そうして音になってしまった旋律は二度と元の形には戻らない。
 世界は美しい。世界に満ちる旋律は美しい。二度と同じ音を奏でることはないと知っているからこそ。
 だからちっとも大丈夫じゃないのに、桜は大丈夫、と音を奏でるのだ。そこに溢れているのが、美愛への深い慈しみであることすら美愛は理解して、そうしてしまったらもうどうしようもなくて、美愛はただ無力に顔を両手でおおい、大丈夫じゃない、と繰り返した。
 そうしたってきっと、桜の奏でる旋律は変わらないと知っていたけれど。



 その桜が花をつけたのは、いつの頃だっただろう。もう美愛はそんな細かいことを覚えていない。覚えているのはただ、桜の一番最初の花が咲いた瞬間の、歓喜に満ちた弾けるような旋律。そしてその花に気付いた風巳の、何とも言えない甘やかな音色。
 風巳の時は刻一刻と失われていくことを、美愛はちゃんと知っていた。美愛の様に魂の旋律を聴くことが出来なくても、日に日にやつれてゆく風巳の姿を見れば誰もが、その終わりの瞬間が近いことを予感しただろう。
 風巳はめっきり外に出ず、ただ【誰か】が通るその瞬間だけを待ち焦がれたように窓を開け、柔らかく甘やかに笑んで彼を見つめる。彼もまたまっすぐに、求めるように風巳を見つめる。ただ、言葉もなく見つめ続ける。
 美愛もまためっきり外に出ないまま、日がな一日部屋に閉じこもっては窓を開け放し、窓枠にもたれかかって、日に日に花を咲かせてゆく庭の桜の老木と、日に日に儚くなって行く風巳の姿を見つめていた。そうして二人が奏でる旋律は、今までに聞いたこともないほどに美しく、確実に近付いてくる別れを予感させるに十分だった。
 風巳が待ち続けていた【誰か】のおとないを、美愛は期待していたとも、嫌悪していたとも言える。【誰か】がやって来たとき、見つめ合っている瞬間の風巳の魂が奏でる旋律は、他のどんな時よりも美しく儚かった。【誰か】の力強い旋律は風巳の旋律に寄り添うように包み込み、守るように謳う音色は聖譚曲。そして二つの旋律が響きあうそばに、優しく笑むように、慈しむように、あやすように、まどろませるように、静かに静かに響き渡るもう一つの旋律。
 高く低く、遠く近く、響き合い重なり合うその旋律を、聴きたくないといえばそれは嘘になる。それは地上に存在するどんな旋律よりも美しく、世界に満ち満ちるどんな旋律よりも綺麗だった。世界を旋律として認識する美愛にとって、その旋律は甘やかな誘惑だった。
 だがその旋律をまた、聴きたかったといってもそれは嘘になる。その甘やかな旋律を聴くことは、すなわちすべての終わりへと確実に近付いてゆくことだった。美愛が聞き続けた世界の終焉。世界が否応なしに変容すると言うこと。
 世界は旋律に満ちている。そして世界は静謐な音楽を奏でてその瞬間を待っている。美愛は息を潜めて、ただ静かにその旋律を聴く。その瞬間が来ることを知りながら、その瞬間が来ることを怖れて、ただ静かに美愛は旋律を聴いている。
 風巳と同じように、めっきり部屋に引きこもってしまった美愛を母も、父も心配していたようだった。二人の心が心配そうに奏でる旋律は、しっかりドアを閉じていたとしてもいつも美愛の耳に響いていた。それをすまないと思わなかったわけではない―――――ただ、だからと言って彼らに笑んで見せるだけの気力が、美愛には存在しなかった。
 両親もひょっとしたら、美愛が引き篭もってしまっていた原因を知っていたのかもしれない、とも思う。美愛はただ、風巳の旋律を聞き分けることだけで精一杯だった。その旋律が途切れる瞬間を恐れ、けれども途切れていないことに風巳の存在を確かめ、その旋律が世界から失われる瞬間を想像しては恐怖に身をすくませる。
 世界に満ちる旋律はどこまでも美しく、いつものように美愛をうららかで安らかなまどろみに引き込もうとして、それが美愛には恐ろしかった。風巳が失われようとしているこの時すら、変わらず世界が美しいことが、美愛には耐え難く恐ろしかったのだ。
 窓の外で桜は咲き、そしてはらはらと散ってゆく。舞いを踊るように、見るものの徒然を慰めるように、桜はただ咲き、五月雨のような美しい旋律と共にその花弁をあたりに漂わせる。終わりを予感させる美しさに、美愛はぎゅっと瞳を閉じて、ただ旋律に耳を澄ませる。
 ―――――それは冷たい雨が桜の花弁を散らす頃だった。その日の世界の旋律は明らかに何かの予感に満ちており、雨は常になく甘やかな旋律を奏で続け、そうして美愛はその旋律に張り詰めた緊張を覚えていた。
 もう幾日目になるのか、自室に引きこもったまま美愛はベッドに顔を伏せ、大きなクッションを頭の上に乗せて、ただその瞬間を恐れ続けた。予感と呼ぶには強すぎるほどの確信と、やがて来るべき変化を予感して歓喜に身を震わせる世界の旋律に、美愛は【その瞬間】が遠からず訪れることを、予想していた。
 高く、低く。
 遠く、近く。
 優しく、激しく。
 世界は旋律を奏で続け、美愛はぎゅっとクッションを握りしめた。さぁさぁと糸の様な雨が降り続いていた。桜が、やはり何かの予感に常より甘やかな旋律を奏でていた。
 ……………そうして。

「ひ……………ッ!」

 【その瞬間】美愛は、否応無しに少年の魂の最後の叫びにも似た激しい音律を聴き分けてしまう自身を呪った。世界に満ちた旋律がその音律に歪められ、その歪みすら内包して新たな旋律に生まれ変わるのを、つぶさに聴き届けてしまう自身の能力を呪った。
 【その瞬間】。世界から風巳が失われた、その瞬間。
 その瞬間はまるで交響曲のフィナーレのようで、あまりにも美しく、美愛はポロポロと涙を零した。その涙が旋律のあまりの美しさゆえだったのか、それによって世界が変容してしまったことを知ったからなのか、それともただ純粋に風巳が失われたことが哀しいのか、美愛にはもう判らなかった。
 ただ、知っている。世界は変容してしまった。【その瞬間】を境に、永遠に風巳は美愛の前から失われた。あの優しくもいとおしい【兄】、共に幼い日々を世界の美しさに思いを馳せ、世界の美しさに涙することで過ごした大切な存在は、永遠に美愛から取り上げられてしまった。

「あああああぁぁぁぁ……………ッ!」

 美愛は―――――初めて、生まれて初めて、身も蓋もなく号泣した。自分の声が世界の旋律を壊すかも知れないことなど露ほども思わず、ただただ、衝動のままに声を上げ、涙を流し、赤ん坊のように泣き続けた。
 あまりに激しい美愛の泣き声に驚いた母が部屋に飛び込んできて、そうしてから事態を悟り、母は顔を歪めて美愛を抱いた。その母の肩に顔を埋め、腕を爪が食い込むほど握り締めて、美愛は見開いたままの瞳から滂沱の涙を流し、声を限りに泣き叫んだ。
 世界は変容してしまった。世界から風巳は失われてしまった。
 ただ、それだけのこと。そして、それほどのこと。美愛の識る世界から、美愛を知る風巳が失われたこと。美愛を通して世界を識った風巳が、今まさに風となって世界に溶け込んでいったこと。
 嵐のように激しい音の嵐の中で、美愛は子供のようにひたすら泣き叫んだ。それ以外にどうすれば良いのかわからなかった。それ以外に何が出来るとも思えなかった。
 泣いて、泣いて、また泣いて、泣き疲れて美愛の小さな身体が母の膝に滑り落ちた頃、冬月家の電話がその事実を知らせるベルを鳴らした。母はその電話を受けて、初めて泣いたようだった。泣きながら、美愛が泣いています、と子供のように訴えた。電話の向こうでその言葉を聞いて、風巳の母もまた、そうですか、と涙を零した。



 それは冷たい雨が桜の花弁を散らした翌日だった。風巳は「咲くと良いね」と儚く微笑った桜ではなく、真っ白な菊と百合に囲まれて、病に侵される前の眩しい笑顔を見せていた。その写真を見上げて美愛は、まるでお兄ちゃんじゃないみたい、と呟いた。ここにも美愛の識らない風巳が居る―――――こんな時になってもまだ、美愛の識らない風巳がいる。
 真っ黒な服を着てここには居ない風巳に形ばかりのお別れをして、美愛はごろりと芝生に寝転がって空を見上げた。そうしていつかのように、空から降ってくる旋律のカケラを全身で受け止め、風巳が失われたことを知らないように旋律を奏で続ける世界に嫌悪した。
 世界は旋律に満ちている。どんな時もただひたすらに、世界は旋律を奏で続ける。そうして失われたものと新たに生まれたものを内包して、世界の旋律は刻一刻と変容してゆく―――――残酷なほど鮮やかに。
 庭の隅に立つ、桜の老木。幼い頃からただの一度も花をつけなかったくせに、この春に限って絢爛の花を咲かせた桜の木。その桜は今や、立ち枯れをして、美愛が愛したまどろみのような唄を謳わない。風巳が世界から失われた瞬間、風巳を見送るように、風巳に殉ずるように一際綺麗な旋律を奏で、枝一杯に咲かせた桜の花を一斉に散らせ、桜の老木は満足そうに消えていった。
 どうしたのかしら、と母が言ったが、美愛には判っていた。桜は最初からそのつもりだった。最初から、自分の存在すら危うくすることを承知で、桜はただ風巳のためだけに最後の力を振り絞って花を咲かせた。大丈夫、と柔らかな旋律を奏でながら、桜は風巳のための花を咲かせ、逝った。
 ちっとも大丈夫じゃない、美愛は呟いて空を見上げる。眦からまたポロポロと涙が零れるのを知ったが、それを拭おうとは思わなかった。世界は風巳を失い、そして桜を失った。それでありながら世界はただ、世界だった。残酷なまでに世界は美しく、それは風巳が失われた今になっても少しも変わることがない。桜を失った今もなお、世界はただひたすらに美しい。

「ちっとも大丈夫じゃないよ……………」

 風巳が居なくなったのに。
 桜が枯れてしまったのに。
 美愛の愛する存在が二つも同時に失われた世界が変わらず美しくただ存在する、その事実が「大丈夫」だというのなら美愛はそんな言葉、欲しくなかった!!そんな言葉をくれるより、ただずっとそばにいて欲しかったのに!!
 ポロポロ、ポロポロ、零れ始めた涙は留まる気配を見せなかったが、美愛はただ流れるまま、だんだん涙に滲み始める空を見上げ続けた。空から降ってくる美しい旋律がこれほど厭わしいことはなく、けれども此処に居ればまたあの音が降ってくるような錯覚があった―――――美愛、眠ってるの、と柔らかな笑みを含んだ優しい音。
 けれども待ち望んだ音はついに訪れることはなく、変わりに柔らかな母の声が、気遣うように美愛の上に降り注いだ。

「美愛………?」
「……………お母さん」

 母の顔は一言では言い尽くせない感情で彩られており、そのすべてが美愛を心配してのものだ、ということは美愛にも理解できた。なにより母から流れてくる旋律は、表情よりも雄弁にそれを物語っていた。
 この、能力―――――世界に存在するすべてのモノを旋律として認識し、世界に満ちる旋律を聴くことで世界を知ることの出来る、美愛の能力。直接見ていたわけでもないのに、風巳の死の瞬間を悟ってしまった、忌まわしい能力。
 けれども。

『美愛の力は、とても優しい力だね。美しいものを美しいと自然に感じることの出来る、優しい美愛にぴったりの優しい力だね』
(そうね、お兄ちゃん)

 風巳が居なくなった瞬間はあれほど忌まわしかった能力が、今はとても愛しい。誰かの優しい心を優しい音色で感じることの出来るこの能力が、美愛は今、限りなく愛しい。
 ああ、と美愛は新たに涙を流した。風巳が失われた世界が、風巳が失われたまま美しいのが、美愛には嬉しく、哀しかった。風巳が居なくても世界は美しい。風巳が居ないのに世界は美しい。それが嬉しくあり、寂しくあり、愛しくあり、いきどおろしくある。
 美愛の涙に何を思ったのか、母は風巳のように優しく笑んだままそっと指先で美愛の涙を拭い、ふわり、と美愛の転がっている芝生の上に座って、視線を庭の隅に巡らせた。その先にはあの、長い間咲かなかった桜がある。

「桜、枯れちゃったわね」
「うん」

 美愛も半身を起こし、同じように桜の方へ視線を注いだ。風巳が逝った瞬間、一際煌びやかな旋律を奏でて風巳と共に逝った桜の木。今まで一度も花をつけなかったのに、風巳が『咲くと良いね』といったから咲いた、あの優しくまどろむような老木。
 ―――――けれど、ほんとうにそうなのかしら?
 ふいに美愛は自分の考えに首をかしげた。あの桜は確かに優しく、美愛が風巳を愛していたのと同じように、桜も風巳を愛していた。風巳はとても心優しい少年で、世界に愛された子供だった。だから桜が風巳に殉じようと思ったのを、美愛は自分のことのように理解できる。
 多分、風巳という存在は奇跡だった。失ってしまえば二度と巡り会えない奇跡であるのが、美愛にはちゃんと判っていた。そんな奇跡が存在することをいつも世界は歓喜し、そんな奇跡がやがてヒトとしての役割を終えて戻ってくることを世界は待ち望んでいた。
 桜は、風巳を愛していた。彼に殉じようと思うほどに、桜にとっても風巳は奇跡だった。美愛にとっての風巳がそうであったのと同じくに。
 ―――――けれども。

「……………でも大丈夫、お母さん」

 気付けば、美愛はそう微笑んでいた。美愛の言葉に、あら、と母が首をかしげる。

「何が大丈夫なの?」
(それはいつか、あたしが桜に言った言葉だ)

 あの時、美愛は桜が自らの命を縮めることを知りながら最後の花を咲かせる決意をしたことに悲しみ、それ以上のことなんて考えもしなかった。それから後も美愛は、ただ世界から風巳が失われることを怖れ、他の何かに構っている心の余裕なんて存在しなかった。
 けれども、桜は決めていたのだ。美愛が桜の気持ちをちゃんと理解していないことを知っていても、桜は美愛の気持ちをちゃんと理解していた―――――生まれた時からまどろむような旋律で美愛を慈しみ続けた、優しい優しい桜の老木。

「桜は、美愛の代わりにお兄ちゃんと一緒に逝ったの」

 美愛は、風巳と一緒に行きたかった。風巳の居ない世界を生きることを、美愛はとても怖れていた。だから努めて美愛は風巳が失われようとしている世界から目をそらし、同時に風巳が世界から失われようとしていることを何より怖れていた。
 桜は、あの優しい老木は知っていたのだ。美愛が風巳を失いたくない気持ちも何もかも、桜はちゃんと知っていたのだ。
 だから『大丈夫』だった―――――美愛の代わりにちゃんと、風巳と共に在り続けるから。美愛がやがて風巳の元に還るその日まで代わりに桜がそばに居るから、だから『大丈夫』だと桜は言ったのだ。
 そう理解してしまった瞬間、美愛は再び瞳を固く閉じ、ポロポロ流れる涙をそのままに、空から降ってくる旋律に耳を澄ませた。その中に風巳や、あの優しい桜の旋律が重なっているような気がした。こんな時でもなお、世界に満ちる旋律はただ、美しい。
 美愛?と再び母が言葉を紡ぐのに、ゆっくりと頷いた。



 冬月美愛にとって、世界とは旋律に満ちた、限りなく美しいものだった。その中で旋律に囲まれ、旋律に浸り、旋律に癒されて生きることを、美愛はとても愛していた。
 日々変容しながら耐えがたく美しい世界の旋律の中で、美愛はだから、今日もまどろむ。
 終わらぬ夢を絶える事無く。





オリジナルノベルリングのイベント用に書いたお話。

テーマは【音楽】だったわけなんですが、だからってこんな話を書く馬鹿、

きっと私以外には存在しないでしょうな……………

しかも冬なのに桜です。

それはまぁ、BL部屋の『ウタカタ ノ 夢』とリンクしてるからなんですが……………

色々と消化不良なお話ですが、楽しんでいただけたら幸いです♪(無理)


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