<大いなる意志の狭間で>
その次の日からも亨と旭は、あの夜の出来事がまるで嘘であったかのようにぼんやりと汽車に揺られ続けていた。亨はただ窓の外を眺め、旭はにこにこ笑いながらそれを見ている。
そして時々呟くのだ―――――ねぇ亨さん、何処まで行くの?
その度に亨は、さぁ、と気のない応えを返す。返して、けれど考えてばかりいる。
一体自分はどうして、何処に行くためにこの汽車に乗ったのだっただろう、と。そしてどうして旭は、そんなことを聞いてくるのだろう、と。
考え続けて、けれど未だ答えは、見えない。
◆
そんな困惑や疑問をないまぜにして、それでも汽車はただひたすらにまっすぐ、どこかに向かって草原を走り続けていた。けれども窓の外の光景は、最初に比べればずいぶんと賑やかだ。山や木々や、そして最近では動物や明らかに人造のものと思われる何か石造りの物体までが、窓の外に現れた。
現れただけで、さして亨には何の意味も持たないものだった。
それでも最近、気が付いた。
これらの風物たちは、亨が普段日常に紛れさせて忘れてしまっている何かを思い出した時に現れるのだ。あるいは、その風物が現れた時に触発されたように思い出すのだ。
例えば、自分の名前だとか。祖母の事だとか。もっと違う何かだとか。
色々な日常の出来事につぶされて、普段心にとどめておく余裕すら奪われた、そんな何か。自分が「亨」である事なんて、そんな名前の人間である事なんて、亨は多分随分忘れていたのだ。普段生きていくのに、亨という名前はただの記号程度の意味しか持たないのだから。
そんな風に色々と小さな、けれど忘れかけていた大切な何かを思い出して、その度に現れる風物を瞳に写し、そしてまたぼんやりと時を重ねる。
汽車の音を聞き、振動をゆりかごのように感じながら、座席で丸まって眠って夜を過ごす。
そして時々は、旭の熱を肌に感じて。
そんなぼんやりとした時だけが過ぎていって。
それでも思い出せないのは、亨がかつて「何」を「日常」と呼んでいたのかという事だった。
亨の日常。この汽車に乗る前に過ごしていた日々。そんなモノが少しも、この心の中に浮かんでこない。多分思い出さなければ「なぜこの汽車に乗ったのか」という事も解らないだろうのに。
思い出そうとしてもそれは、まるで現実感のないふわふわとした感覚しかもたらさず、むしろだんだんとこの汽車に乗っている事だけが日常のすべてであったような心地すらした。生まれてからの時間のすべてを汽車に乗り続けていたかのような錯覚。
それが一体どういう事なのか解らないまま、やっぱり汽車は走り続ける。そしてまた時が流れていく。
◆
ねぇ亨さん、と旭が言った。
それにゆらりと視線を向ければ、いつものとおりの笑顔を浮かべた旭が、やっぱりいつもの通りののんびりとした口調で、けれどいつもとは違う言葉を口にする。
「このまま、この汽車に乗っていっちゃうの、亨さん?」
「……………ぇ?」
一瞬何を言われたのか解らず、ぽかんと見返した亨の顔を真っ直ぐ見返して、旭はまた微笑んだ。それからさらに何か、言葉を続けようとしたのだけれど。
ポ―――――ッ!!
大音量の汽笛が、続く旭の言葉をすべてかき消した。どんなに耳を澄ませても、狂ったように鳴り続ける汽笛の音しか聞こえない。
旭はちょっと、苦笑した。
「…………ごめんね」
それが誰に向けられた謝罪だったのか、解らないままに旭はそれきり、押し黙ってしまった。その旭の様子に首をかしげ、それからようやく、汽笛が聞こえなくなっていた事に気付く。
不意に訪れた痛いほどの沈黙。それまでの大音量とのギャップで耳がおかしくなったような心地すらある。
問い掛けるような視線を向けた亨に、困ったように旭は微笑んで、それからそっと視線を外した。流れていく窓の外の光景が、旭の澄んだ瞳に映っては消えていく。
それを半ば睨み付けるような目をした亨の耳に、それこそ気を付けていなければ聞きこぼしてしまうようなささやかな声が聞こえた。慌ててその音の欠片を拾い集める。
―――――思い出して
訴えるように、懇願するように。ただそれだけの言の葉が。何をともつかず、何でとも知れず。
亨の中にすっと、染み込んでくる。
「―――――何を?」
掠れたような声で問い返せば、旭は亨からは視線を外したまま、ゆっくりと首を振る。わずかに瞼を伏せた。
パーカーのポケットに突っ込まれたままの両手が一度、ぎゅっときつく握られた。
「言えない…………言おうとしても多分また、邪魔されるだけだもの。だから亨さんが、思い出してよ」
「邪魔、される?」
「そう。僕から言うのはルール違反だから、邪魔するんだ」
さっき汽笛が鳴ったでしょう。
のんびりとした口調で言われて、ああ、とうなずいた。旭が何かを言おうとしたときに、そう言えば汽笛は鳴ったのだ。それにかき消されてしまって、旭の言葉は何一つ亨の耳に入ってこなかった。
あれが邪魔された、という事なのか。
そんな風に納得しかけて、それから奇妙な事に気が付いてぎょっとした。それではまるで、この汽車自体が何らかの意志を持っているかのようではないか?
しかも、亨の「何か」を汽車の方が知っていて、それを監視すらしている。そういう事ではないのだろうか。
視線だけで旭に問い掛けると、ちら、と亨の方に視線をよこして笑う。それが肯定のときに旭がやる癖だと、不意にまた亨は思い出す。小さな旭がよく、こんな風に自分を見上げてはにかむように微笑んでいた。
それがいつの事だったのか、けれど思い出そうとしてもそれ以上、亨の頭には何も思い浮かばない。
窓の外には今度は、飛び交う白い鳥の群れが現れていた。
to be contineu ……………
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