<清澄な祈りの寝殿に>
亨、と誰かが呼ぶ声がする。
◆
ヤスが目の前で消えたことに、さすがの亨も驚きを感じずには居られなかった。
大きく目を見開いてそれまでヤスが居たところをまじまじと見つめる亨に、旭はにっこりと微笑みかける。こくり、と首をかしげた。
「良い夢が、見れたんだね」
「……………旭」
タタンタタン、タタンタタン、タタンタタン、……………
名前を呼んだきり二の句が次げないでいる亨と、それ以上何を言う気もなく微笑んでいる旭の間に、沈黙の代わりに走り続ける汽車の音が響いた。汽笛の音は、今は聞こえない。
不意にそれに気が付いて、亨はどうしてだかひどく驚きを覚えた。旭がこういう意味深なことを言い出すとき、たいてい汽車はけたたましい汽笛でその言葉をさえぎったものだから。
旭も言っていた。〈汽車に邪魔される〉のだと―――――
それが、聞こえない。
ドクン、と一つ、心臓の音が耳元で響いた。
「旭、前にオレに言ったよな……………この汽車には意思がある、って」
「……………」
「オレは、そういう汽車に昔、乗ったことがある気がする」
ぎゅっと、ありもしない息苦しさを感じて胸元を掴んだ。シャツがしわくちゃになって、潰れて、何もなくなる。
享の中には、何もない。
旭が静かな瞳に享の姿を映して、微笑った。
そこから少し視線をずらして窓の外を眺めれば、換わらず流れて行く草原の景色。一番最初、そこには享の中と同じように何もなかった。ただ無限に広がる草原だけがあった。
けれど今草原には、たくさんのモノがある。享が〈何か〉を思い出すたびに、何かが増えていく。
―――――そんな現象を、自分はかつて、見た事がある気が、する。
「旭。この汽車は、なんなんだ?……………オレはどうしてここに居る」
それは異常だ。自分がこの場所に居ることが、おかしい。
……………そんな感覚を抱いた理由は、享にだってわからない。ただそう、強いて言うなら享は〈気が付いた〉のだ。
何か大切なことがこの現実からは欠落している。
旭は微笑ったまま、けれど享の言葉に何一つ答えようとはしなかった。旭から言うのは〈ルール違反〉だからだ。そう、確かに以前言っていた。旭がルール違反を犯せば、汽車は邪魔をする。だから享が思い出すしかないのだと。
いや、そうじゃないはずだ。
享は即座に自分の考えを打ち消した。旭が言っていることは間違っていない。けれど享は、旭に聞くよりずっと前からその事実を知っていた。知っていたことを、思い出した。
だって、そう。
「オレがお前に、教えたんだ……………」
『それはルール違反だから、オレからは教えられない』
旭に確かに、享はそう言った。どうしてなのと問いかける旭に、繰り返し説いて聞かせた。それはルール違反だから。だからお前が自分で思い出すしかないんだ―――――ヒントはやるから。
そう、確かに言った。
「お前は……………」
「享さん?」
「旭、お前は、この汽車に乗ってたよな?」
今よりももっと昔、旭が小さな子供だった頃。多分あれは小学生ぐらいだったのではないか。
享の、遠い記憶を手繰り寄せるような頼りない言葉に、けれど旭はいつかも見せた、満面の笑みを浮かべて頷いた。
「そうだよ、享さん。僕は子供の頃、この汽車に乗っていた」
そして、旭は享に出会ったのだ。
◆
旭が亨と出会ったのは、旭がまだ小学3年生、幼い子供の頃だった。いわゆる「お受験」組で母親が厳しくて、その頃からすでに暇さえあれば机の前で勉強していたような子供。それが嫌で仕方が無いのに、他にやりたい事も知らなかった。
対する亨は―――――大学に入ったばかりだと、言っていただろうか?
そんな旭の言葉に、亨はありえないと首を振った。だって亨は、まだ高校2年生にすらなっていないのに。大学どころか、その受験すら遠い未来の話としか思えないのに。
けれども確かに、どんなに思い出しても、亨の記憶の中の旭はいつも上目遣いに亨を見上げているのだ。目を合わせるのを恐れるように、けれど見なければ怒られるとでも言うように。
亨の意識の中に、矛盾が生じる。
それで混乱しているのすら見通しているように、旭が亨の顔を見てにっこりと笑った。
「初めて会った時、僕が亨さんの事なんて呼んだか、覚えてる?」
「『お兄ちゃん』…………」
「うん」
「だから俺は『名前で呼べよ』って言ったんだ、よな?」
亨の確認するような問い掛けに、旭は満面の笑みでうなずく。
くすくすと嬉しそうに肩を竦めた。
「亨さんは、さ。僕の前でずっと、座って外を見てるだけだったよ」
気がつけばその亨と言う名のお兄さんは、何が楽しいのだか汽車の窓の外を見てばかりいるのだ。だから旭も、亨さんと言うお兄さんが見ているものを探そうとした。探そうとして、解らなくて、それでもう一度お兄さんの方を見ると、今度は笑いながら旭を見てる。
そしてまた、どこか遠くを見つめる。
旭が亨と過ごした日々は、そんなことの繰り返しだった。
それは亨の記憶の中にもかすかに残っていた。いや、正確には旭の話に引き出されるようにそんなことを思い出していった。
汽車は、今はもう旭の話を邪魔しない。それは、亨が〈旭と出会っていた〉未来を思い出したからだろうか。
旭はぼんやりとどこか遠くを見るように、懐かしそうに目を細める。
亨はそれを聞いて、未来の記憶を思い出そうと眉を寄せる。
そんなありえない出来事が、この汽車の中では現実になるのだ。
かつて老婆が未来を語って嘆いたように。
かつて子供が過去を夢見て笑ったように。
時間軸を外れて過去と未来が今を違えて融合する場所、それがこの汽車の中。誰もの一生の時間の中を生まれてから死ぬまで走り続ける汽車は、過去を生きるものの中にも未来を生きるものの中にも無論あって。
だから、小学3年生の旭と大学1年生の透が出会い、その後(亨にとってはその前になるわけだが)高校1年生の旭と同じ年の亨が出会ったと言う事実も、この走り続ける汽車の中でなら少しも、不自然ではない。それを「思い出す」事すらも不可能ではない、ここはそんな空間なのだ。
事実旭も、ずっとずっと未来になるはずの高校生の亨との思い出を、小学生の時に「思い出して」いた。子供の旭はその記憶ゆえに、早く大きくなりたいと願ったのだと。
「だって僕の知ってる【亨さん】に会うためには、高校生の亨さんに出会わなきゃいけないんだ、って解ったから」
高校生の旭と亨が、汽車の中で出会う事が必要だったから。だから旭は、大きくなりたいと願った。汽車を降りたいと、願った。
それはただ、亨に出会うためだけに。
旭の言葉の中の矛盾に、亨は一瞬の空白の後、気がついた。それを探るような視線を向ければ、にこ、と旭が笑う。
あの笑いは、何も言わない時の笑いだ。何かを亨に隠している時の笑みだ。それは、小学3年生の頃とちっとも変わらない。
ねぇ亨さん、と旭が笑った。
「思い出した、亨さん?何でこの汽車に乗ろうと思ったのか」
……………それが大切なキーワードなのだろうと、亨はぼんやりと思った。自分がそれを思い出さない限り、どこまでも続くこの謎かけにも似た旅は終わらないのだと。
(旅が、終わらない?)
じゃあ亨は、終わらせたいのか、この汽車の旅を?どこまでも続いて未だ終着駅も見えないこの旅を、終わりにしたいと言うのだろうか?
だったら何でそもそも、亨はこの汽車に乗ったんだろう―――――?
笑える事に、今まで散々旭に問い掛けられておきながら、疑問に思ったのは今日が初めての事だった。亨は、汽車に乗っていた。その事に疑問すら抱かずに。
だがそも、なぜ自分は、この汽車に乗ったのだっただろう。いつから、汽車に乗っていたのだろう。そして、どこへ行くために?
どうしてだか、緊張した。どきどきと鼓動が早まるのを感じた。それがなぜなのか解らないままに、過去にあるとも未来にあるとも知れない記憶を手繰り寄せようと、亨は意識を凝らした。
思い出せ。
その理由を思い出せ。
『―――――何やってるの、亨?もう塾の時間でしょう?』
不意に、頭の中に、女の声が響いた。
to be contineu ……………
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