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楽園の獣




 ナターシャは、文字通り砂が水を吸い込むような勢いで、あっという間に朝月の教えたゾルファット語を覚えてしまった。
  もっとも、教えたのは当面必要になりそうないくつかの単語や挨拶、言葉などだ。たとえば『こんにちわ』『おはよう』『食事がほしい』『宿屋』『干し肉』『剣』『服』『ナイフ』『フォーク』『パン』エトセトラ、エトセトラ。
  朝月自身が言ったことだが、単語さえ連ねていればそれなりに言葉として聞こえるし、十分に意味は通じる。あとの細かい文法は、教えるよりは体得して覚えたほうがずっと実用的だし、効率が良い。
  だがナターシャ自身もどうやらこの勉強を気に入ったようだ。最初こそ〈黄金郷〉への衝動を我慢している風だったけれども、次第に朝月の言葉を拙く繰り返す瞳がキラキラ輝き始め、朝月が教えた以外にも『あれは何と言うのです?』『これは?』と矢継ぎ早に質問が飛び出した。
  そんな訳であっという間にいくつかの単語を自分のものにしてしまったナターシャに、今後の旅はゾルファット語のみを使用することを厳命する。まず真っ当に行けば、それで十分用は足りるはずだ。間違って中央大陸を突き抜けてしまわない限り。
  そう言うと、ナターシャはゾルファット語の勉強が始まって初めて不安そうに顔を曇らせた。

『朝月ともゾルファット語で話すのですか?』
「当たり前だ。普段から使ってねぇと慣れねぇからな」

 ナターシャの不安そうな言葉にゾルファット語で返してやると、少女はしばらく眉を寄せてじっと考えた。それからようやく朝月の言葉を理解して、そうですか、とますます眉を曇らせる。
  まるで見捨てられた子供のように頼りない視線が、すがるように闇色の獣の背に向けられた。ペシッ、としなやかな尻尾が地面を打つ。それにナターシャは、情けない顔をますます曇らせた。どうやら芳しくない返事が返ってきたらしい。
  しばらくそうして情けない顔をしていたナターシャだったが、やがて自分に言い聞かせるように細く息を吐いた。

『…………仕方ありませぬ。それもみな、〈黄金郷〉へ行くためなれば』

 声色はやっぱり頼りないままだったが、どうやら彼女なりに折り合いをつけたらしい。
  朝月は大きく肩をすくめて同意をして見せ、荷物の中から小さな煮炊き用の鍋を引っ張り出した。気づけばもう太陽は地平線と触れ合わんばかりになっている。いい加減夕食をこしらえて腹に収めなければ、無駄な薪を消費することになってしまう。
  手早く火を起こす準備をしながら、朝のように小刀と干し肉をナターシャに渡した。

「干し肉を小刀で適当に削って、鍋に入れてくれ」

 わざわざゆっくりと、手振りをつけながらゾルファット語で指示すると、少女は「干し肉、小刀、削る、鍋」と拙い発音で繰り返した。どうやらまだ細かいところは聞き取れないようだが、教えた当日にこれだけ話せれば十分だろう。
  人にものを教えたことなど生まれてこの方初めてだったが、まぁ、何とかなるものだ。実は結構適当に断言していたのだが。
  一人満足そうにうなずきながら、積み上げた枯れ草に向かって火打石を二度、三度と打ちつける。散った火花はすぐに乾ききった草に飛びついて燃え上がり、ぱちぱちと音を立てながらすぐ上の小枝を舐めるように燃え始めた。
  適度に小枝を刺し、少しずつ太いものに変えていきながら、干し肉を削るナターシャを見る。彼女はまだ慣れない手つきながら、順調に干し肉を一つ一つそぎ落とし、鍋の中に落としていた。時々行き先が鍋の中ではなく自分の口になるのは、まぁ、この際許そう。
  適度に削れた、と思ったところで朝月はナターシャを止め、乾燥野菜を入れて、水袋から水を注いだ。干し肉から出る塩分があるので、調味料はあまり要らない。ぱらぱらと風味付けの香料を振りかけて、ある程度大きく育った焚き火の上に枝を差し渡して引っ掛けた。
  ジッ、とナターシャがイーヴァの首に腕を回しながら朝月の動作を見守っている。どうやらナターシャは好奇心は旺盛な娘らしく、他にも色々、じっと視線を注いで動かないことがままあった。
  起こされたイーヴァが大きく一つ、欠伸をする。それから朝月に金色の瞳を向け、フンフン、と鼻を鳴らして少しあごを引いた。今のはどうやら感謝されたらしい。なんだかよく判らないがそんな気がする。たぶん、ナターシャにゾルファット語を教えたことの礼なのだろう。
  いつの間にかイーヴァを一個の人間として扱っている自分に驚きながら、たいしたこっちゃねぇ、と嘯いて肩をすくめ、返礼した。それは我ながらいかにも奇妙な光景だったが、けっこう楽しかったりする。
  そうして、コトコトと煮立ってきた鍋を木匙でかき混ぜようとした時のことだ。
  獣の耳がぴく、と動いた。同時にナターシャが銀の頭を鋭く振り上げ、飴色の瞳に険しい光を宿して宙を睨み付ける。とっさに小刀を構えた様子は、干し肉を削るよりずっと様になっている。イーヴァがやはり険しい瞳で前方を睨み、ウーッ、と低く唸った。
  二人のただならない様子に、朝月も全身に緊張を走らせながら自分の後ろを振り返る。見上げた夕焼けの茜空に、最初に見えたのは染みのような黒だった。

 ―――――ブゥー・・・・・・・・・ン。

 遠くから響く羽の音と共に近付いてくるその黒は次第に大きくなり、次第に複数の個体が集まったものであることが見て取れるようになった。それと共に空気に緊張がみなぎり、朝月の全身をめぐる千が戦いの気配を感じて沸き立ち始める。
  考えるよりも早く手にした木匙をあさっての方向に放り投げ、右脇に置いた剣に手を伸ばした。瞬時に鞘を抜き払うと、白刃が夕日の光を受けて茜色の輝きを放つ。朝月が相棒と頼み、傭兵になって以来命を預けてきた、使い込まれた大剣だ。
  見る見る間に黒いしみは視界いっぱいに広がって、光景の異様さを人間たちに知らしめした。まだずいぶんと距離はあるはずだが、遠くにあってもなお存在感を示すその集団は、着実に近付くにつれて空気中に切れるような緊張感を振りまき、見るものすべてを圧倒する。
  チャキ、とつばを鳴らして大剣を構えた。誰かに言われたわけでもなかったが、この空気こそが、敵がやってきたのだと朝月の本能に痛いほど訴えていた。
  ニヤリと、笑う。不敵かつ傲岸に。

「面白ぇじゃねぇか」

 呟きながら近付いてくる集団との距離を測り、同時に目の端に小刀を構えたナターシャと、立ち上がって隙なく構えたイーヴァを見た。獣は猫のようにぶわりと背中を膨らませ、四肢を大地にふんばって唸っている。
  ―――――蟲の、襲撃だった。




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